世界のボーイソプラノ

 独唱を聴く楽しみは、合唱のそれとはかなり違います。そこで、ここでは、私が今までに聴いたことのあるボーイ・ソプラノ(アルト)の名ソリストを取り上げ、その歌唱の特徴について述べます。ただし、海外のボーイ・ソプラノの場合、教会の聖歌隊や教会と関連のある少年合唱団に所属して宗教曲、あるいは、もう少し幅広く各種の声楽曲を歌うトレブル(Treble)・ボーイ・ソプラノ(Boy Soplano)と、キリスト教圏の場合、宗教曲を歌わないこともないけれども、主として各国の歌曲や民謡、歌謡曲やポップスを歌う少年歌手(Boy singer)に分けられるのではないかと考えます。そこで、前者は、「世界のソリスト」として紹介し、後者は、「心に残る少年歌手」として紹介します。なお、歌のジャンルに好き嫌いはあっても、上下はないと思っています。アーネスト・ロフ以前にも、1914~1915年に録音をしたウォルター・ローレンスやウィリアム・ピッケルズのようなアメリカ合衆国聖歌隊の少年はいましたが、そのプロフィールがわかっていません。(詳細は、「ボーイ・ソプラノの歴史」をお読みください。)

 世界のソリスト

      1 アーネスト・ロフ  (Ernest Lough 1911~2000)

  1911年ロンドン(イングランド、エセックス州ウェストハムの自治区、フォレストゲート)生まれのアーネスト・ロフは、世界で最初に録音を残したイギリスのボーイ・ソプラノの一人です。地元の教会聖歌隊で歌っていましたが、1924年にロンドンのテンプル教会の聖歌隊に参加することで、新たな道が開けてきました。CDに復刻された1920年代前半の歌声を聴くとむしろ女声に近い清澄で繊細な響きです。これは、現在のイギリスの聖歌隊の響きにも通じるものです。とりわけ、15歳の時に録音した「鳩のように飛べたら(O for the Wings of a Dove)」は、名唱として知られ、この録音は20世紀を通じて販売され続けました。 1963年1月、記録35周年と、テンプル教会とHMVの35年以上にわたる協力の完了を記念して、特にゴールドディスクを獲得しました。 100万部以上を販売したことが知られていますが、その数は正確には記録されていません。まだCDで入手でき、現在600万枚以上を販売しています。1929年に17歳で変声期を迎えましたが、歌っているヘンデル・シューベルト・メンデルスゾーン・ブラームスの歌は、今のボーイ・ソプラノにも歌い継がれている曲が多く、ボーイ・ソプラノの源流を探る上でも貴重な録音といえます。アレッド・ジョーンズや、アンソニー・ウェイのCD解説の中にも、アーネスト・ロフの名前を見つけることができるという意味では、イギリスのトレブルの規範となる人物であり、歌唱でもあります。なお、変声後はバリトンとして余暇に歌い続け、テンプル聖歌隊の「紳士」または成人メンバーの一人でした。

      2 レスリー・デイ (Leslie Day 1917~   ) 

  1917年12月、レナード・ヨーマンス生まれのレスリーは、ハックニーのセント・バルナバスで聖歌隊になり、そこから発見されて、ロンドンのパビリオン劇場[1933年3月?6月]の舞台名でマスター・レスリー・デイと名付けられました。彼のマネージャーはリリー・デンビルだったようです。レビューによると、聴衆はアンコールを毎晩叫びました。 14歳か15歳のレスリー・デイは、4つのレコードを作り、後に1933年にテレビフォリーズ・イングリッシュという2本の映画に出演しました。これまでのところ、「ミュージカルメドレー」だけが見つかりましたが、これは「Loch Lomand」を歌っている日を示す「Television Follies」からの「フラッシュバック」クリップを提供します。

      3 デレク バーシャム(Derek Barsham 1930~2020)

  1930年、北ロンドンで誕生したデレク バーシャムは、第2次世界大戦という歴史と共に生きてきました。1941年にイギリスに謎の飛行をして捕虜となったナチスの副総督ルドルフ・ヘスの前で歌ったこともあります。また、ボーイ・ソプラノとしての全盛期である1944年から1947年までデレク バーシャムの歌声はBBCラジオでライブ放送されていましたが、1944年6月にはノルマンディー上陸作戦で連合軍への信号としてヘンリー・パーセルの「ニンフと羊飼い」の歌声が使用されてきたと考えられています。当時のレパートリーは、民謡、古典歌曲、愛国歌、感傷的なバラード、ヘンデルからハウエルまでの作曲家による神聖な歌とアリアで構成されていました。1947年の録音が残されていますから、16歳ぐらいまでボーイ・ソプラノを維持していたことになります。その歌声は、高音が清澄でありながらも歌に包容力があり、温かみを感じさせる歌唱です。なお、変声がはバリトンとして、ロンドンの多くのコンサートホールと一流ホテルに出演するコンサートとキャバレーアーティストになりました。1970年には、クルーズ船のプロデューサーおよびパフォーマーになり、1997年まで勤めました。1995年以後にはボーイ・ソプラノ時代の歌声の録音と自身のバリトンの歌声とデュエットした録音も残しています。また、孫のような世代の当時14歳のボーイ・ソプラノ ハリー・セヴァーともデュエットしています。2020年1月1日89歳で亡くなりました。

      4 ビリー・ニーリー(Billy Neely 1935~2012)

 デレク バーシャムの後を継ぐように現れたビリー・ニーリーは、1935年にベルファストで生まれ、1946年にセントアン大聖堂、ベルファストの聖歌隊のメンバーとなりました。1946年から1950年までの間に多くの録音を残していますが、1948年からはBBCでラジオ放送にライブ出演しています。ボーイ・ソプラノの定番曲の録音を数多く残していますが、その歌声は、イギリスの聖歌隊の独唱者(トレブル)の伝統の清澄な響きを受け継ぎながらも、歌い巧者で艶のある甘さも兼ねています。その歌声の特色は、バッハ=グノーの「アヴェ・マリア」やヘンデルの「ラルゴ」やモーツァルトの「アレルヤ」等のソロ曲はもちろん、オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」や、メンデルスゾーンの「挨拶」等のバリトンとのデュエットで際立ち、まるで男女デュエットのようにさえ聞こえます。変声後は、1954年、王立音楽アカデミーに入学し、音楽理論、和声学、作曲、ピアノを学び、その4年後には、ローレンス・ニーリーという芸名のバリトン歌手として1950年代に活躍していました。

      5 ペーター・シュライアー(Peter Schreier 1935 ~ 2019)

 ドイツの名リリック・テノールのペーター・シュライアーは、ザクセン州マイセンで生まれ、マイセン近郊の小村ガウエルニッツで過ごしました。そこでは彼の父親が教師と教会の楽長・オルガン奏者をしていました。そういう家庭的な背景もあって、1945年6月のドレスデン空襲の数ヵ月後、10歳になる直前には有名なドレスデンの聖十字架教会の少年聖歌隊である、聖十字架合唱団の寄宿学校に入学しました。ドイツは連合国に降伏、連合国に分割占領されていましたが合唱団はそのころ再編されつつあり、他の数人の少年合唱団員とともにドレスデン郊外の地下室で生活しました。さて、ペーター・シュライアーの歌声は幸いなことに、1949年~1951年の録音が残っており、それを復刻したCDが発売されました。当然のことながら、バッハをはじめとする宗教曲が中心ですが、歌曲としては「ブラームスの子守歌」等もあります。宗教曲は、華やかさは感じられませんが、しっとりした端正なボーイ・アルトの声が、曲想に合っており、また、歌唱技術の上でも優れたものを持っていたことがわかります。だからこそ、戦後の混乱期にでも録音が残せたのでしょう。この格調の高さは、後年を示唆しているように思えます。ボーイ・ソプラノの少年の録音は比較的多く存在しますが、ボーイ・アルトの少年の歌の録音は珍しいと言えましょう。
 シュライアーは、声楽家としての活動初期からモーツァルトのオペラのテノールであるとともに、ドイツリート優れた歌唱でも知られ、また、バッハの宗教曲も若い頃から重要なレパートリーの中心として、世界的に名声を得ました。

       6 プレーベン・トーントフト(Preben Torntoft 1937~  )

  デンマーク出身のプレーベン・トーントフトは、12歳でオーフスフォーク音楽学校の有名な音楽教師イエット・ティクジョブとハンス・エリック・クヌーセンに師事して、その歌と音楽性を磨きました。イエット・ティクジョブの指揮の下で、ラジオ番組で歌ったことがきっかけで1951年にレコードを吹くこむことになり、変声する1953年までの2年間に多くの歌声を残しています。デンマークの作曲家ニールセンの曲が多いのですが、イタリア古典歌曲やヘンデルの歌劇「クセルクセス」のアリア「オンブラ・マイ・フ」も録音しています。また、師のクヌーセンは、ピアノ伴奏をしていることもあります。その歌声は、有節歌曲においては、明るく透明度の高い端正な歌声で自然な表現の純粋さがその特色と言えますが、「オンブラ・マイ・フ」では、劇的な表現もでき、違った側面を聴かせてくれます。その後、母校の高校教師をしながら、テナーとして独奏と合唱の両方を行っています。

    7  デイヴィッド・ヘミングス (David Hemmings 1941~2003)

 ブリテンの「ねじの回転」「小さな煙突掃除」等でソロを聴かせてくれる1950年代イギリスのボーイ・ソプラノのデイヴィッド・ヘミングスは、イングランド・サリー州ギルフォード出身です。作曲者自らが起用したのですから、役柄にあった声であることを認めたのでしょう。ブリテンのオペラは、アリアらしいものが少なく、旋律歌唱よりアンサンブル中心なので、その面がよく分かりません。「ねじの回転」のマイルズは、天使と悪魔が同居する役ですが、表面的には繊細な声でひ弱い少年という印象が強く心に残っています。高く澄んで良くとおる舞台映えしそうな声でもあります。9歳から3年間ブリテンの「ねじの回転」のマイルズ役をはじめさまざまな舞台に立ちました。声変わりの後にロンドンの美術学校で絵画の勉強を始めますが、やがて退学してラジオドラマを経て映画デビュー。その後舞台に出演しながらB級作品に出演を重ね、1966年にミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」で一躍注目されます。その後、製作や監督業を始めて、「別れのクリスマス」でベルリン映画祭の監督賞を受賞。俳優としては「ジャガーノート」、「サスペリアPART2」などが有名です。

       8  ホセ・カレーラス  (José Carreras 1946~  )

 20世紀末に、ルチアーノ・パヴァロッティやプラシド・ドミンゴと並んで世界の3大テノール呼ばれるようになったホセ・カレーラスが、少年時代ボーイ・アルトとして活躍していることは、かなりよく知られています。1946年12月5日に、スペインのカタルーニャ州バルセロナ生まれたカレラスは、幼いころから音楽的才能を現し、8歳でスペイン国立放送に出演、『女心の歌』(ヴェルディ)を歌って初めての公開の演奏を行いました。この録音は、「オペラ界の不死鳥」(白血病を克服した)という自伝ビデオでを聴くことができます。当時活躍した歌う映画スター、マリオ・ランツァ主演の映画『歌劇王カルーソー』の歌に感動して歌ったといいます。ところが、声域は、原曲のテノールでもなければ、1オクターブ高いソプラノでもなく、アルトに移調して歌っています。この歌いっぷりは、うまさよりも、後年を予測するようなドラマティックさを感じるものであり、磊落なマントヴァ公爵の性格をよく伝えています。しかし、6歳ぐらいで何時間もトイレに閉じこもって歌ったり、シャワーの下でも歌ったので、家族はうるさがるだけでなく、気が変になったもではないかと心配したそうです。貧しい家庭のため、映画館に連れて行くのがやっとでしたが、母方の祖父が歌手になることを勧めました。レコードプレーヤーと、2枚のレコード(映画『歌劇王カルーソー』のサントラと、ジュゼッペ・ディ・ステファーノの『ナポリ民謡集』)が彼の歌の先生でした。しかし、当時、歌ってチップをもらうぐらいの近隣からのリクエストはあったようです。本格的に舞台に上がったのは、11歳のときでバルセロナのリセウ大劇場でファリャの『ペドロ親方の人形芝居』のボーイソプラノ役の語り手と、プッチーニの『ボエーム』第二幕の子役を歌いました。なお、声質は、ボーイ・アルトです。
 その後は、スペインの名門音楽院であるリセウ音楽院で学び、リセウ劇場に『ノルマ』のフラヴィオ役でデビューしました。そこで、主役ノルマを歌った著名なソプラノ歌手モンセラート・カバリェに注目されるようになり、彼女はカレーラスをドニゼッティの『ルクレツィア・ボルジア』の上演に招き、これがカレーラスの最初の大きな成功のきっかけとなったのです。テノールになってからの録音・録画は数多くありますので、あえて紹介しません。

       9 ロイ・グッドマン(Roy Goodman 1951~   )

 ロイ・グッドマンは、イングランドの南東部に位置するサリー州ギルフォードの生まれ。少年時代は、ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団で声楽を学び、その当時の歌声は、デイヴィッド・ウィルコックスの英語版で1963年3月に歌われた「灰の水曜日のための晩祷」に残されていますが、この曲を唯一完全録音した貴重な録音です。聖歌、賛美歌、祈祷文によって構成される本作品では、名門ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団の黄金時代の美しい歌声の数々(とりわけ、アレグリのソロを歌うロイ・グッドマンの高音が秀逸)を心ゆくまで楽しめます。ロイ・グッドマンは、同時に、ヴァイオリンも学び、入学した王立音楽大学ではヴァイオリンが中心となり、バロック・バイオリンの名手として様々な古楽器オーケストラで演奏する一方、指揮者(鍵盤奏者)としてハノーヴァー・バンドの音楽監督を務めるなど、時代考証に基づいた指揮活動を行っています。 指揮者として、グッドマンはモンテヴェルディからコープランドに至るまで120以上の録音を行ってきました。また、グッドマンはまた、現代音楽の40以上の世界初演を監督しています。このような経歴から、アレグリの「ミゼレーレ」のソリストは、その音楽活動の原点と位置づけられます。

      10 サイモン・ウルフ(Simon Woolf 1954~  )

 サイモン・ウルフの名前を知ったのは、1990年代に増山法恵が「子供っぽいボーイ・ソプラノ」言い換えれば、声質の愛らしさによって特徴づけられるタイプの代表としてこのボーイ・ソプラノの名前を挙げていたことですが、そのレコードジャケットを見ることはあっても、その歌声を知ることはできませんでした。
 イギリス生まれで12歳のサイモン・ウルフは、地方デビューした後、ロンドンで、ジョーン・サザーランドと並んでロイヤル・フェスティバル・ホールでメサイアでソロを歌うチャンスを得、それ以来、コンサート・プラットフォーム、オペラ・ステージ、ラジオ、テレビの需要が絶えず続き、2枚のソロのLPを録音しました。ところが、変声後は、クラシック音楽を離れ、ジャズのベーシストとして音楽界で活躍しています。

       11 リチャード・ボンソール(Richard Bonsall 1955~   )

ニュージーランド出身のリチャード・ボンソールは、ニュージーランド少年合唱団とのソリストとして訓練を始め、数々のコンクールで優勝し、テレビやラジオ番組にも出ていました。器楽においても、ピアノ、オーボエ、クラリネットを演奏しています。その歌唱は、折り目正しい気品のある演奏で、声はよくコントロールされています。また、ヴィヴラートは時としてボーイ・ソプラノとしての美質を損なうこともあるのですが、そのヴィヴラートさえ上品に仕上がっています。その歌声はLP・EPレコードにも残されています。変声後は、ニュージーランドのオークランド大学で日本語と音楽の学士号を取得し、1977年には大阪外国語大学の日本語と文学の卒業証書を、1979年には東京国立芸術大学の日本語と民族音楽学の修士号を取得しました。そのような意味で日本ともかかわりのある人物で、現在は家族でニューヨークに住んでいます。

      12 ボブ・チルコット(Robert "Bob" Chilcott、1955~   )

 ボブ・チルコットの正式な名前は、ロバート・ボブ・チルコットで、愛称の"Bob" を強調しています。現代のイギリスを代表する合唱 とりわけ、少年少女合唱向けの曲の作曲家であると同時に、指揮者、歌手でもあります。1955年4月9日にプリマスで生まれたボブ・チルコットは、ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団で、少年団員および大学生として合唱に参加。1967年には同合唱団のガブリエル・フォーレ作曲のレクイエムより「Pie Jesu」のレコーディングにも参加しており、この録音は現在も聴くことができます。イギリスの伝統に基づいた歌唱です。
 1985年にはキングズ・シンガーズに入り、12年間テナーを務めた後、作曲に集中するため1997年に脱退しました。このように、イギリスの合唱の伝統を引き継ぎながらも、新しい音楽との接点を探る作品も多く作曲しており、「ジャズ・ミサ」などがその代表です。日本でも、少年少女合唱団によって「平和のミサ」などがよく採り上げられています。また、日本歌曲を編曲した混声合唱曲「日本の歌による5つの合唱曲集 故郷」(1.砂山 2.村祭 3.おぼろ月夜 4.故郷 5.紅葉)なども編曲しており、日本ともつながりのある作曲家とも言えます。

       13 マイケル・クロスマン(Micheal Crossman 1955or1956~ )

  詳細なプロフィールはわかりませんが、カナダの少年で、The Melody Landというグループに所属し、10歳の時に、“Sing”というLPを録音しています。Sister Mary Berrandと記載されているので、The Melody Landは、教会とかかわりのある団体かもしれません。その歌声は、全体として先ず、何よりも甘く可愛い感じがします。13曲のほとんどは、当時カナダで歌われていた子どもの歌でしょうが、ナポリ民謡の「サンタ・ルチア」や、ドイツ民謡の「別れ」も含まれています。

       14 ポール・ダットン(Paul Dutton 1956?~  )

 ポール・ダットンは、イギリスのリーズで生まれ、少年時代はリーズ教区教会の聖歌隊でトレブルとして6年間のキャリアを重ねて以来、変声後テノール歌手になっても、音楽は彼の人生の一部でした。この合唱団や他の多くの合唱団のソリストとして、彼はテレビやラジオの放送、そして多くの録音を行い、イギリスとヨーロッパをツアーしました。その後、ポールはジェラルド・ラッグ、ジーン・アリスター、ポール・ウェイド、ロバート・ディーンと音楽と歌を学びました。トレブルとしてのポール・ダットンの歌声の特質は、その声質の美しさにあり、しかもそれが繊細かつ抒情性豊かであることに尽きるでしょう。ポール・ダットンは、少年時代に多くの録音を残していますが、その歌声は、聴く人の心に安らぎを与えてくれます。ポール・ダットンのキャリアは、英国とヨーロッパ全体の両方で主要なオペラの役割とオラトリオを網羅してきました。彼は引き続きOpera Northで働き、Britten Singersのメンバーです。CDも、続々と録音し、リーズ市音楽院合唱団、リーズフェスティバル合唱青年合唱団、リーズメソジスト合唱団、ヘディングリーオペラティックソサエティ、ショラポルタスの音楽ディレクターとして、ポール・ダットンはバードからレナード・バーンスタインまでの合唱レパートリーを指揮してきました。彼はまた、ハロゲートの聖マルコ教会の聖歌隊長でもあります。息子のウィリアム・ダットン(William Dutton)も、トレブルとして、また、2代目の“THE CHOIR BOYS”の一員として活躍しました。

   15 アラン・クレマン (Alain Clement )

 フォーレの「レクイエム」のソプラノ・ソロのパートは、それまで女声で歌われることが常でしたが、1972年にミシェル・コルボの指揮によって録音されたレコードには、当時としては初めてボーイ・ソプラノのアラン・ クレマンが起用されました。アラン・クレマンは、当時ミシェル・コルボのおじアンドレ・コルボが自分の合唱団である聖ピエール・オ・リアン・ド・ビュール聖歌隊を使ってこの曲を演奏しようと準備していたのですが、そのコンサートを目前にして亡くなってしまいました。そのためおじへの追悼としてミシェル・コルボがこの曲を同聖歌隊を使って録音したという逸話が残っています。アラン・クレマンは、音程はやや不安定で巧みさは感じられませんが、ボーイ・ソプラノ独特の清純な楚々とした響きを聞かせてくれ、この曲に求められる死者の鎮魂の心をよく表現しています。ところが、このフォーレのレクイエムの録音後わずか10日ほどで声変わりが始まってしまったそうです。声変わりしたあとのアラン・クレマンは、その後も、ミシェル・コルボ率いるローザンヌ声楽アンサンブルでバリトンとして歌っています。

      16 ハンス・ブッフヒール(Hans Buchhierl 1961 -  )

 日本で昭和の終わりごろに発売されたテルツ少年合唱団のCD「Halleluja(日本の題名はきよしこの夜/テルツ少年合唱団」)の中で「カロ・ミオ・ベン」「オンブラ・マイ・フ」「アヴェ・マリア」を歌うソリストとして活躍しているのが、ハンス ブッフヒールです。録音は1973年 ミュンヘンと記録されていますから、12歳頃の歌声です。その歌声の特色は、低音は地声に近い胸声なのですが、高音になるにつれて繊細であると同時に、独特の節回しで色っぽく聴こえます。なお、テルツ少年合唱団は、この頃から次々とレコードを録音するようになりました。また、ミサ曲や「クリスマス・オラトリオ」「モーツァルトのレクイエム」等も録音しているようです。


       17 アンドリュー・ウィックス(Andrew Mackenzie Wicks 1963~  )

 アンドリュー・ウィックスは 1963 年に生まれました。チチェスター大聖堂のの聖歌隊員になることが推奨され、1971 年にジョン バーチ博士が彼をチチェスターの保護観察官として受け入れました。 そして彼はプレベンダル学校に入学しました。 彼は 1976 年に主席聖歌隊員になり、この頃、アンドリューは初めて単独でソリストとして演奏し、チチェスター大聖堂でバーチ博士と 2 回のランチタイム リサイタルを行い、記録的な出席者を集めました。「In Choir and Concert at Chichester Cathedral」というLPを残しています。その歌声は、イギリスの伝統に裏付けされていると共に、透明度の高い明るい響きが魅力的です。1977 年にアンドリューはイーストボーン カレッジに進み、そこでソロとレコーディングの仕事を続けました。 アンドリューは、1978 年 1 月に BBC のためにトレブルとしての録音を最後に行い、LPに残されています。
   彼は後にダラム大学で合唱を学び、合唱の研究者になりしました。 彼は、さらに、ロイヤル ノーザン カレッジ オブ ミュージックで 4 年間歌唱を学び、テノールとしてグラインドボーンに戻り (1996 年の『コシ・ファン・トゥッテ』で フェッランドを歌っています)、現在はコンサートとオペラで多忙なソロ活動を行っています。

       18 ベジュン・メータ(Bejun Mehta 1968~   )

 ベジュン・メータは、指揮者のズービン・メータの従兄弟でもあるインド系アメリカ人で、ノースカロライナ州ローリンバーグで生まれ、ミシガン州アナーバーで育ちました。父、ダディ・メータは、中国の上海でインド人の両親に生まれたピアニストであり、指揮者のズービン・メータのいとこです。 彼の父は東ミシガン大学のピアノの教授でした。 彼の母親、ペンシルバニア州アルトゥーナのマーサ・リッチー・メータは、ミシガン大学美術館の開発オフィスで働いていたソプラノおよびジャーナリストであり、彼女は息子の最初の声楽教師でした。弟のナヴロイ・メータはバイオリニストであり、ベンチュラ音楽祭の芸術監督を務めています。
   そのような音楽一家で生まれ育ったベジュン・メータのボーイ・ソプラノとしてのソロ活動は、9歳の時から始まりました。1982年は12才にして天才ボーイ・ソプラノとしてDelosレーベルからデビューし、1983年に終わりました。ベジュン・メータの唯一のLPを入手して聴いた最初の感想は、それまで聴き慣れていたウィーン少年合唱団のソリストの少年の歌声等とはかなり違います。事実、ウィーン少年合唱団のソリストの歌は、いかにも少年らしい声と歌い方が身上ですが、ベジュン・メータの歌は、むしろ大人のソプラノの女声に近いつややかな表現が特色です。ヘンデルの作品やブラームス編曲のドイツ民謡などもレコーディングしていますが、とりわけ、シューベルトの「岩の上の羊飼い」などは、そのような印象を受けました。技術も素晴らしく、表現も豊かで、歌を自分のものにして歌いこなしています。「上手い子供」の域をはるかに越えていて、大人のソプラノ歌手にも匹敵する実力です。少年と知らずに聞いたら大人のソプラノと思う人もいるような抜群の安定感のある歌声です。細い、透明感のあるいわゆるボーイソプラノの歌声とは違います。指揮者のバーンスタインは、
「この少年の音楽性の豊かさと完成度には、聴くもの全てが圧倒されるだろう。」
と絶賛しています。そのように、少年時代は売れっ子のボーイ・ソプラノで、女声と間違われるほどでしたから、声変わりしてからはバリトンとして数年間歌ってはいたものの芽が出なかったのを、「女々しいから絶対なりたくない」と嫌ってたカウンターテノールに転向した途端に頭角を表したというのは、何たる運命の皮肉ではありませんか。その歌声は、Youtubeで聴くこともできますが、容姿はLPのジャケットからは想像しにくいスキンヘッドあるいは・・・です。男らしくなりたいという夢がこんな形で実現したのでしょうか。カウンターテノールになってからは、ルネ・ヤーコプスから認められ、彼の下で研鑽を積みました。比類ない劇的な表現は別格で、2004年に録音したヘンデルの「オルランド」等、様々なバロック・オペラなどで絶賛を浴びています。

       19 セバスチャン・ヘニッヒ(Sebastian Hennig 1968~   )

 セバスチャン・ヘニッヒは、1968年10月に、彼は、ハノーバー少年合唱団の創設者でディレクターのハインツ・ヘニッヒの息子として生まれ、1976年から1994年までハノーバー少年合唱団のメンバーでした。セバスチャンは現在、「ハノーファー ハーモニスト」という、ハノーバー少年合唱団出身者によるヴォーカルグループでバリトンパートを歌っています。彼は、1981年にはハノーバー少年合唱団の一員としても来日しましたたし、変声後にも来日しています。
 セバスチャン・ヘニッヒの名前を不滅にしたのは、何と言ってもペルゴレージのスターバトマーテルを挙げることができましょう。味わうべきは、この歌。この曲は、ボーイ・ソプラノのセバスチャン・ヘニッヒとカウンター・テノールのルネ・ヤーコプスによって歌われています。ソロあり、デュエットもありますが、第一声より緊張感が伝わってくる演奏です。セバスチャン・ヘニッヒは、透明度の高い歌声で深い悲しみを歌い綴っています。それは、「気品がある」とか、「きれいな」とかいう言葉がむなしくなるほど、心に迫る歌です。清澄で端正なその歌声は、宗教曲がよく似合っています。その他、アレグリのミゼレーレ、メンデルスゾーンのHear my prayer、バッハのカンタータ大全集を始め、録音も多いのですが、どのような理由か、個人のソロレコードは出していません。オムニバスのCDがあってもよいと思っています。

    20 ピーター・オーティ(Peter Auty 1969~   )

  レイモンド・ブリッグスの絵本が原作のアニメーション「スノーマン」(1982年12月24日放映)の挿入歌「Walking in the air」は、雪だるまと少年が空を飛ぶ場面で印象的に使われています。その後、この歌は、クリスマスソングの一つとして世界中に広まりました。このアニメーションの中で歌っているのは、セントポール大聖堂少年聖歌隊のピーター・オーティで、8歳の時からこの聖歌隊で歌っています。さて、「Walking in the air」の創唱者は、ピーター・オーティなのですが、その後次々とカバーが歌われ、その中で一番ヒットしたのが、同世代のウェールズ出身のアレッド・ジョーンズによるものでした。そのために、アニメーションの中で歌っているのもアレッド・ジョーンズだと思っている人もいるようです。この二人は1歳違い(ピーターが1歳年上)で、録音時期はオリジナルが1982年ごろ、アレッド版が1985年となっています。ピーター・オーティの歌唱は、イギリスの聖歌隊の伝統に則りながらも、せっせつとしたものを感じさせます。
 「スノーマン」放映当時アイドル的に扱われることのなかったピーター・オーティは、その後順調に音楽の道に進み、テノール歌手となりました。プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』のロドルフォ役、『カルメン』でドン ホセ役やグノーのオペラ「ファウスト」のタイトルロール等を持ち役としています。また、サー・コリン・デイヴィス指揮のロンドン交響楽団、ウラジミール・アシュケナージ指揮のアイスランド交響楽団、エド・デ・ワールト率いるロイヤル・フランドル・フィルハーモニー管弦楽団など、自国と海外の両方のオーケストラとコンサートを共演してきました。

      21 アレッド・ジョーンズ(Aled Jones 1970~   )

「百年に一人のボーイ・ソプラノ」というふれこみは、決して大げさではありませんでした。この1970年生まれのボーイ・ソプラノは、16歳までボーイ・ソプラノとして歌い続けることができ、日本でも、CDの売り場に、アレッド・ジョーンズのコーナーができるほどでした。このようなことは、これまでなかったことです。声は、ボーイ・ソプラノとしてはやや太めで、音程も正確で、安定した歌が歌えます。また、歌い方は、まっすぐなだけでなく、暖かい包容力のようなものを感じます。
 アレッド・ジョーンズは、ウェールズ北部の都市バンガー出身で、9歳でバンゴール大聖堂の聖歌隊に加わり、それから2年でトップソリストに上り詰めます。その清澄な美声は、地方のレコード会社セイン(Sain)の注目を惹き、録音契約を結ぶことになります。アニメ映画「スノーマン」の主題歌、「Walking in the air」を録音し、そのレコードがヒットチャートを駆け抜けたことでとりわけ有名になりました。それは、創唱者のピーター・オーティを追い抜くもので、英語圏を中心に、国際的にレコード売り上げ記録をはじき出しました。1985年にはマイク・オールドフィールドのシングル「Pictures in the Dark」に参加。アニタ・ヘジャーランドと共にミュージックビデオにも出演しています。
 事実、少年時代には聖歌隊員として活躍するだけでなく、コンサートでもバーンスタイン、マリナー、サザーランドなど世界一流の音楽家と共演しています。また、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世や英国女王エリザベス2世への御前演奏に参加し、テレビのさまざまな子供番組にも出演していました。クラシックの音楽家として最初に、ポピュラー音楽のヒットチャートにアルバムが2枚同時にチャート入りするなどの記録を誇っています。残したアルバムは、宗教曲が多いですが、イタリア古典歌曲や、ロイド・ウェッパーのミュージカル「キャッツ」の「メモリー」や、ビートルズの「イエスタデー」等の入った「ベスト・オブ・アレッド・ジョーンズ」が本命盤で、これを聴くと、その魅力は大体つかめます。また、ビデオで歌う姿をみると容姿もその歌声のイメージに近いものをもっており、その点においても、恵まれた少年といえましょう。日本にその名が伝わったのは、本人が声変わりを迎えた1980年代中頃でしたが、変声期以前の録音がTVCMに利用されただけでなく、その整った容貌からアイドル視され、日本では大同生命のコマーシャルに出演しました。
 しかし、変声後王立音楽アカデミーやブリストル・オールド・ヴィック附属演劇学校に進学し、また、フィッシャー・ディスカウ等の名師について学んだにもかかわらず、変声期の壁をなかなか乗り越えることができなかったようです。ボーイ・ソプラノの栄光が大きかっただけに、悩みも深かったことと推察されます。プロコフィエフの「ピーターと狼」の語り手の声を聞くと、声質はハイ・バリトンのようですが、その後も十数年にわたってCDの発売もなく、その歌声を聴くことができないでいました。その後、ミュージカル歌手への転向をはかるなどの苦節の末に芸能界入りし、ウェストエンドのミュージカルで主役を演じ、テレビ・ラジオにも出演していたそうで、1999年にはポップスナンバーを中心にしたCDアルバム「Tell me boy」を録音。さらに、33歳になった2003年にはオリジナル曲を含む讃美歌を中心とした「アレッド」を録音、大人の歌手として再デビューしました。その声はソフトなハイ・バリトンですが、柔らかで温かみのある音色で、言葉を一つ一つ丁寧に歌っており、心に安らぎをもたらす歌を歌っています。
 現在は、英国のBBCラジオやClassic FMでのいくつかの番組、ITVのモーニングショーなどの司会進行を務めるほか、故郷ウェールズでラジオ番組やテレビ番組に出演、コメディ番組でコントを演じるなどで親しまれています。2004年には、イギリスの著名な舞踏家リリヤ・コプィロヴァをパートナーに、BBCの高視聴率番組Strictly Come Dancing(有名人が社交ダンスで競う番組)で競技に参加、第4位に入選しました。これを機に体調管理と減量に取りくみ、少年時代の端麗な容姿を取り戻したとの評判もあります。私生活では2001年に結婚して、2人の子供の父親となっています。

        22 ポール・マイルズ=キングストン (Paul Miles-Kingston 1972~   )

 ポール・マイルズ=キングストンは、1982年に所属していたウィンチェスター大聖堂合唱団の合唱奨学金を獲得しました。イギリスでは、聖歌隊員は聖職者という扱いを受けますが、教会での奉仕以外に、放送、オラトリオで多くのソロを歌いました。1983年には、合唱団と一緒に西カナダをツアーし、BBCプロムで彼らと歌った。彼は、傑出した独唱と、ピルグリムズスクール(ウィンチェスター大聖堂聖歌隊学校)での音楽的貢献で、聖歌隊としていくつかの賞を受賞しました。ポール・マイルズ=キングストンの名を不滅なものにしたのは、ニューヨーク市での世界初演、ウェストミンスター寺院での英国初演で、サラ・ブライトマン、プラシド・ドミンゴ、ウィンチェスター大聖堂合唱団とともに出演するアンドリュー・ロイド・ウェッバーの「レクイエム」の「ピエ・イエズ」で、メゾ・ソプラノパートのソリストとして大成功を収めたことです。このCDによって、彼はシングルパイジェスのシルバーディスクを受賞しました。これはチャートで3位になり、1985年には40万枚以上を販売したアルバムのゴールドディスクとプラチナディスクも受け取りました。同じ年に、ポールはロンドンのバービカンセンターで2回歌い、エジンバラの女王が出席したガラロイヤルにも参加しました。ポール・マイルズ・キングストンの声質は、木管楽器のような温かみと癒し系の系譜にあります。それは、「天使のパン」の独唱を聴くとよりはっきりします。成人してからは、ヨークの聖ピーターズスクールで音楽監督として働いています。現在(2019年当時)は、息子のウィル・マイルズ=キングストン(Will Miles-Kingston)が、トレブルとして嘱望されています。

      23 アラン・ベルギウス(Allan Bergius 1972~  )

   ドイツのボーイ・ソプラノ アラン・ベルギウスは、アレッド・ジョーンズとほぼ同じ時期にヨーロッパ各地やアメリカ等で活躍しましたが、現役のボーイ・ソプラノであったころ、ソロのLP・CDが日本で発売されることがなかったため、日本ではこの分野のいわゆるマニアの間でしか知られていませんでした。アラン・ベルギウスが所属していたテルツ少年合唱団の研究をしていた漫画家のたらさわみちによって1986年に新書館編 「少年合唱団」の中で紹介されることはありましたが、録音によってその歌声を聴くことで、その実力が日本の音楽ファンに知られるようになってくるのは後年になってからです。
 アラン・ベルギウスは、チェリストであるドイツ人の父とピアニストであるイギリス人の母という音楽家の家庭に生まれたので、非常に幼い時から音楽に接して来ました。1978年から彼はチェロを学び始めました。声楽を本格的に始めるきっかけとなったのは、アランの父、ヴォルフガング・ベルギウスが、バイエルン国立歌劇場のチェリストとして、テルツ少年合唱団と共演した時、合唱団の指揮者ゲルハルト・シュミット=ガーデンに、自分にも歌の上手な7歳の息子がいる事を話したことです。アランがブレスなしで2オクターブを歌い切るのを聞いた時、シュミット・ガーデン氏は即、彼の少年合唱団に契約させました。ここで彼は急成長していき、少年合唱団のトップソリストに上り詰めます。そして、9歳でオペラ・デビューを果たしています。同年からアルノンクール指揮のバッハ・カンタータのレコーディングも始まり、ペーター・シュライヤーとも共演するなどのキャリアを積みます。テルツ少年合唱団のソプラノソリストとしては、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ジェームズ・レヴァイン、ヴォルフガング・サヴァリッシュとニコラウス・アーノンクールの指揮のもと、ヨーロッパ、イスラエルとアメリカへのツアーを行いました。また、ソリストとして頂点をなす演奏は、1984年にレナード・バーンスタインの下で、212日にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(第6回定期演奏会)と、そして624日にミラノ・スカラ座管弦楽団と共演したマーラーの交響曲第4番のソリストと言えましょう。
   翌年のザルツブルク音楽祭でのモンテヴェルディ(1567~1643)の歌劇『ウリッセの帰還』では、愛の神(アモーレ)役を演じており、この演奏はDVD化されています。登場するのはプロローグの数分間だけなのですが、13歳当時の歌声は、まさに「爛熟」という言葉がふさわしいような声です。なお、この時の衣装は、古代ギリシャ戦士風のミニスカートのようなもので、脚は、既にこの時少年から青年に近づいていることを窺わせ、少年期最後の姿をを映像に残したという感がします。
 アラン・ベルギウスの歌唱の特質は、歌劇『魔笛』の「夜の女王のアリア」のようなコロラトゥーラの超絶テクニックを持ちながらも、それだけに頼ることのない高潔さや明るく伸びやかで優しい高音の響きで、その歌声には清冽な色気さえも感じさせます。また、テレビ用オペラ『アポロとヒュアキントス』では、ヒロイン・メリア役を演じています。これは、装飾音の技巧だけでなく、少女になりきった演技が際立っています。また、『ねじの回転』のマイルズ役も当たり役の一つです。そのように、オペラ出演が多忙を極め、学校の出席日数が少な過ぎることなどもあって、アランは、変声前にテルツ少年合唱団を退団したそうです。もちろんその後もソリストとして個人活動を続け、変声する前にソロコンサートや自主制作盤の3枚のLPを発表しました。これらは、希少でなかなか入手できないものです。1枚目は、バッハとモーツァルトの宗教曲が中心ですが、この中にアンコール的に「夜の女王のアリア」も入っています。2枚目はシューマンの歌曲集「詩人の恋」で、変声期が近づいて高音に少し陰りが感じられますが、ゆったりしたテンポの演奏です。3枚目はモーツァルト、バッハ、モンテヴェルディ、ヘンデルなどから選曲されたもので、かなり落ち着きや哀愁を感じさせる演奏です。どれも、100%クラシックのもので、アレッド・ジョーンズのようにミュージカルのナンバーやポップス系の歌は歌っていません。
 歌手としてのキャリアと並行して、ベルギウスは音楽家としてのキャリアを続けました。 12歳のとき、彼はヤン・ポラシェクのチェロクラスに入り、1993年にミュンヘンのリヒャルト・シュトラウス音楽院を優秀な成績で卒業しました。この期間中、彼は「ユーゲント音楽コンクール」で第1位を受賞しました。1994年からケルン音楽大学でフランス・ヘルマーソンにチェロを学び、入学試験に優秀な成績で合格し、1998年にはコンサート試験にも合格しました。さらに、アマデウス弦楽四重奏団やアルバン・ベルク四重奏団ともレッスンを行っています。このように、変声後は、チェロを学び続け、チェリスト並びにシュヴァーベン青少年管弦楽団の指揮者として活躍しています。

      24 ニコラス・シリトー(Nicholas Sillitoe 1972~  )

  ニコラス・シリトーは、ウェールズ出身で、ウィンブルドンのキングス・カレッジ・スクールの生徒で、そこで外部の活動で合唱団(聖歌隊)とソリストの両方として歌うよう奨励されました。彼はロンドン・ヤング・シンフォニアでハイドンの創造、ブラームスのレクイエム、プーランクのグロリアでソリストとして演奏し、さらにロンドンのバブリカン・センターでフィルハーモニア管弦楽団と真夏の夜の夢の付随音楽を演奏しました。また、彼はチャンネル 4 テレビ用にナディア ブーランジェの「Pie Jesu」を録音し、ラジオ 3 で放送しました。 ロンドンオペラ・ハウスでも『スペードの女王』『魔笛』『ねじの回転』等に出演しています。アレッド・ジョーンズと同時期に活躍しましたが、LPを1枚出しただけなので、アレッド・ジョーンズと比べて日本ではあまり知られていませんでしたが、高く細く鋭い歌声で、むしろ劇場向きの声質です。
 1990 年代に、ニコラスは他の形式の音楽の実験を開始し、後にペル マルテンセンとチームを組んでバンド イルミネーションを結成しました。 彼らのデビューアルバムは、2000年にノルウェーの年間最優秀アルバム賞を受賞しました。現在は、作曲家・音楽プロデューサーとして、ノルウェーを拠点として活躍し、映画『ダーク・オーム』で 2015 年のアマンダ賞最優秀音楽賞を受賞しました。また、ノルウェーのテレビドラマ シリーズ「Okkupert」の音楽を作曲しました。

      25 ジェイミー(ジェームズ)・ウェストマン (Jamie (James) Westman 1972~ )

   カナダのオンタリオ州出身のジェイミー・ウェストマンは、ボーイ・ソプラノとしては、神聖なクラシックと世俗的なクラシックの両方において、楽しいレパートリーを披露して、国際的に高く評価されています。彼は、セント・メアリーズ児童合唱団、ウィーン少年合唱団、サント・クロワ・ド・ヌイイ・パリ少年合唱団、アメリカン少年合唱団など、いくつかの初期音楽訓練機関で学びました。 1983年、彼は名門アメリカ少年合唱団のリード・ソリストとしてヨーロッパ・ツアー中にフランスのパリ少年合唱団のゲスト・アーティスト・イン・レジデントを務めました。 
  ジェイミーの評判が広まると、マエストロのベンジャミン・ザンダー指揮のもと、ニューイングランド音楽院青年室内管弦楽団の伴奏で、ボストンのジョーダン・ホールにてマーラー交響曲第4番ト長調の第4楽章全体をドイツ語で特別演奏するよう招待されました。 ニューイングランド・オーケストラ関係者はジェイミーのマーラー演奏に感銘を受け、ポーランド、オーストリア、東ドイツへのツアーに選ばれ、海外公演するほどになりました。これは、ボーイ・ソプラノのソリストとしては初めてのことです。
   ジェイミーは、変声後はバリトン ジェームズ・ウェストマンとして、いくつかの国際声楽コンクールで優勝しています。 彼はサンフランシスコ・オペラ・センターで「アルバート・ヘリング」で10歳のマイケル・バネットと共演しました。 マイケルはハリーを演じ、ジェームズはシドを演じました。 ジェームズは2003年の秋にサンフランシスコに戻り、サンフランシスコ・オペラの「パリアッチ」でシルヴィオを演じました。 彼はヨーロッパ、カナダ、アメリカでさまざまなバリトン役を演じてきました。2022-23のオペラ・シーズンには、アマリロ・オペラの『リゴレット』 、バンクーバー交響楽団とケベック交響楽団の『カルミナ・ブラーナ』のタイトルロール、そしてグランド・フィルハーモニー合唱団の『イリヤ』などを演じています。

    26 カルロ・カネ(Carlos Canet 1974~  )

 1989年にフランソワ・ポルガー指揮のフォーレの「レクイエム」や「ラシーヌの雅歌」ソプラノ・ソロのパートを歌うフランスの少年です。カルロ・カネは、やや明るめの声で朗々と歌っており、これもまた、粘液質を感じさせません。カルロ・カネは、同じCDに数曲入れていますが、印象は、アラン・クレマンとほぼ似通っています。サント・クロワ・ド・ヌイイの少年合唱団-パリ少年合唱団のソリストである可能性が高いです。

       27 ジェームス・レインバード (James Rainbird 1975~  )

  スティーブン・スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」は、上海で親とはぐれて日本軍の収容所に送り込まれた少年が主人公の作品ですが、クリスチャン・ベールの演じるジェイムズが冒頭に聖歌隊でソロを歌う「スオ・ガン」は、ジェームス・レインバードの吹き替えによって行われました。この映画によって一躍世界的に有名になったジェームス・レインバードは、1975年にイギリスのラスティントンに生まれ、キングスハウススクール合唱団の一員として1984年にフランスのツアーでソリストとして活躍しており、欧米各国でも活躍してその実力は高く評価されていていました。だから、映画「太陽の帝国」の吹き替えも、その実力ゆえであり、ボーイ・ソプラノ時代の録音もかなり残されています。
 1986年1月、ジェイムズ・レインバードは「スノーマン」でアレッド・ジョーンズに3回指導を受け、2月にはハワード・ブレイクの指揮で挿入歌「Walking in the air」を歌いました。 ジェームズは、ナイジェル ヘスのために 2 つのスコアを記録しました。最初のスコアは、ストラットフォードのロイヤル シェイクスピア カンパニーの「冬物語」で、その後、ヘレン ミレン主演の演劇でした。 1986 年 12 月、彼は BBC ラジオ 2「金曜の夜はミュージック ナイト: スタンレー ブラック指揮 BBC コンサート オーケストラと共に」のゲスト ソリストであり、LWT でボクシング デーに放送されたロンドン パラディウムからの 100 スターのガラ ナイトにも出演しました。 1986 年 12 月のジェームズの主な功績は、コヴェント ガーデンのロイヤル オペラ ハウスから、メノッティのオペラ「アマールと夜の訪問者」でのアマールの役割を研究するよう招待されたことでした。それは、ちょうどメノッティの75歳の誕生日であり、BBCラジオ3で生放送され、後にジェームズはTERレコードのためにロールを録音しました。映画「太陽の帝国」のソロ・ヴォーカル・ミュージックを録音し、カムデン・フェスティバルでベンジャミン・ブリテンの教会寓話のVolte-Faceプロダクションで演奏したのは、その後、その直後です。彼は映画『マジック・トイショップ』のタイトル曲である「ジョナサンの歌」を録音し、1987 年のインターナショナル・コンフェデレーション・オブ・ザ・バラエティ・クラブのためにグロブナー・ハウス・ホテルでスタンリー・マイヤーズが指揮するレン・オーケストラと共演するよう招待されました。 1987 年のカンヌ国際映画祭でサー・アレック・ギネスに敬意を表し、ウェールズ公爵夫妻の前で歌いました。
 その後1987年以来は、ジェームス レインバードはアンドリュー・ロイド・ウェッバーと協力して広範囲に活動し、バービカン、ロイヤル フェスティバル ホール、その他のヨーロッパやアメリカの劇場で定期的に演奏しました。 ジェームズはフレンシャム ハイツ スクールで音楽学の勉強を続けました。 エドウィン・ロールズの専門家の指導と訓練の下、彼はソリストとしての音楽キャリアを継続し、多くの客演を行いました。 変声後もロンドンの中心部に住み、シンガーソングライターとして歌い続けています。

       28 マックス・エマヌエル・ツェンチッチ(Max Emanuel Cencic、1976~   )

   ついにウィーン少年合唱団はソリスト名を公表したのか・・・。そういう驚きをもったソリストがマックス・エマヌエル・ツェンチッチです。マックス・エマヌエル・ツェンチッチの声楽家としての人生は、3つに大別されます。①ボーイ・ソプラノとしての初期のキャリア ②男性ソプラノとしての試行期 ③カウンター・テナー歌手の時期 
 1976年クロアチアのザグレブの音楽一家に生まれ、父は指揮者、母は声楽家である母親の声楽指導を幼い頃から受け、才能を発揮して、早くも6歳でテレビに出演し、モーツァルト作曲のオペラ「魔笛」の「夜の女王」のアリアを披露します。その後も音楽歴は驚くばかりで、10歳でウィーン少年合唱団入団後はさらに歌に磨きをかけました。1989年にウィーン少年合唱団の一員として初来日した時、オペレッタ「デニス夫妻」の中で、お手伝いさん役で女装して歌ましたが、そのコロラトゥーラのテクニックには圧倒されました。声そのものも大人の女声に近く、歌も巧みに歌います。その後、ウィーン少年合唱団のCDやビデオに数多くソリストとして出演しましたが、特に、ヨハン・シュトラウスの「春の声」やモーツァルトの「アレルヤ」は、秀逸なできばえです。また、マーラーの交響曲第4番の第4楽章のソリストを務めていますが、まるで鈴を鳴らして走るそりに乗っているような感じの曲です。幼時よりコロラトゥーラもこなすツェンチッチですから、高音は輝かしく、しかも高度な技巧ももっていることを感じさせる歌です。このように、1987年から1992年までは、は、ウィーン少年合唱団のメンバーとして活躍しました。
   ウィーン少年合唱団を卒団後、「奇跡のボーイソプラノ」と言うことで日本で何度か招聘されてリサイタルを開いていますが、その演奏会のCDも出しています。欧米でも1992年から1997年までピアニストのノーマン・シェトラーと組んで、欧州各地や日本でのリサイタルで高い評価を受けています。しかし、この歌声については、既に変声していることから「メール・ソプラノ」(グルックのオルフェオとエウリディーチェのアモーレとして広く称賛された演奏を含む)というべきであり、その間にカウンターテナーとして声を再訓練しました。2001年からはカウンターテナーとして活躍中。独唱者として活躍した時期もあります。しかし、これは変声後ファルセットを磨いたものではないでしょうか。そのCDを聴くと、ますますその感は強く、女声のようにさえ感じます。
 はっきりとカウンター・テナー歌手として活動するようになったのは2001年からで、バーゼルにて、コンラッド・ユングへーネル演出のモンテヴェルディ作曲《ポッペアの戴冠》ネローネを演じ、それに対して『オペルンヴェルト』誌にて2003年の最優秀新人歌手として高く評価されました。また、2008年4月にはAcademie du Disqueから最優秀オペラ歌手として表彰されています。現在は、世界の主要オペラハウスに出演するとともに、スカルラッティ、ヘンデル、モンテヴェルディ、ヴィヴァルディなどのディスクで高い評価を受けています。続いて、2010年2月28日にウィーン国立歌劇場で、アリベルト・ライマンのオペラ『メデア』の初演でヘロルド役でデビューしました。 彼は 2010 年11月と12 月に国立歌劇場でこの役の追加公演を3回歌いました。2012 年にリール オペラ座で開催されたモンテヴェルディの『L'incoronazione di Poppea』にネローネ役で出演し、ソーニャ ヨンチェヴァがポッペア役、ティム ミードがオットーネ役、エマニュエル ハイムがアストレのコンサートを指揮しました。2017年、彼はベルリンのウンター・デン・リンデン国立歌劇場の再開公演で同じ役を演じ、エヴァ・ヘックマイヤー演出、ディエゴ・ファソリス指揮、ポッペア役のアンナ・プロハスカと共演しました。彼はまた、2016年にカールスルーエのバーディッシュ州立劇場でオペラ、特にヘンデルのアルミニオを上演し、タイトルの役割も果たしました。

      29 アンソニー・ウェイ(Anthony Way 1982~  )

 アレッド・ジョーンズ以後、最も人気の高いイギリス系のボーイ・ソプラノの一人はアンソニー・ウェイでしょう。1982年ロンドンの北87kmのピーターバラ生まれのアンソニーは、7歳で地元の教会の聖歌隊に人リ、9歳のときにロンドンの名門セント・ポール大寺院の少年聖歌隊に入隊し、11歳のときに、聖歌隊の少年を主役にしたイギリスBBCのTV番組“The Choir”(聖歌隊)の主演に抜擢され、次々とCDを録音するという幸運児です。そのサントラ盤はイギリスで50万枚の大ヒットを記録。卒業後は、奨学金を受けてアッピンガム・スクールで音楽を学んでいますが、当時は、将来は海洋生物学者になりたいと言っていました。1997年の夏には、マン島で撮影されたグレタ・スコッチ、ジェームス・ウィルビー、ジョアン・ポーローライト、ナイジェル・ル・ワイヤントと一緒に、トムのミッドナイト・ガーデンの1999年の映画版でトム・ロングとして主演しました。この映画は、イタリアのギフォーニ映画祭でリリースされたことで著しい評価を得ています。
 アンソニー・ウェイは、CDも何枚か残しています。その歌声は清らかで透明度が高くビロードのように滑らかで、また愛らしく聞こえます。また、容姿もその歌声を写したかのように可憐です。日本に来日したときは、残念ながら既に変声期に入っていて、ファルセットでグノーの「アヴェ・マリア」とポップス系の「アンジー」を歌っていました。今ではすっかり音楽性を変えて、ロック歌手になっています。 

      30  コナー・バロウズ(Connor Burrowes 1983~  )

 コナー・バロウスは、「今世紀(20世紀)最後の天才ボーイ・ソプラノ」と呼ばれた人気・実力とも最高のイギリスの少年です。1983年5人兄弟の長男として生まれたコナーは、1991年から1996年7月までセント・ポール大聖堂の聖歌隊で活躍し、ここで、指揮者ジョン・スコットの薫陶により音楽的に大きく成長しました。ということは、アンソニー・ウェイとほぼ同時期に在籍したことになります。日本へは、イギリスの聖歌隊のトップソリストを集めて結成された「ボーイズ・エアー・クワイアー」の中心としてレコーディングした「少年のレクイエム」「ビリーブ」で紹介され、高い評価を受けました。しかし、本格的なボーイ・ソプラノファンからは、このようなヒーリング系の路線よりも、宗教曲やオペラのアリアを歌うべきであったという声もあります。1999年時点はイギリス、サリーのチャーターハウス・スクールに音楽奨学生として在籍。ピアノ、オルガン、クラリネットなども学んでいます。また、「ボーイズ・エアー・クワイアー」のアレンジや指揮も担当しており、将来は声楽家を志望しているとのことで、成人後の歌声も期待できそうです。なお、2000年に「ボーイズ・エアー・クワイアー」が来日したときには、共に来日し、指導者的な活動をしました。また、その後は、変声前と変声後の歌声を組み合わせたフォーレの「レクイエム」が話題を呼んでいたこともあります。
 その歌声は、硬質で透明感があり侵しがたい気品のあるもので、よく伸びる声で表情豊かに歌われるその歌を聴くと、今世紀最後のというキャッチコピーもうなづけます。また、イギリスのボーイ・ソプラノによく見られる繊細だが弱々しさを感じるということはありません。

       31  リーアム・オケーン(Liam O'Kane 1984~  )

 リーアム・オケーンは1984年5月にロンドンで生まれ、8歳のときに南ロンドンのノーベリで「セント・フィリップス・ボーイズ・クワイア」に入って歌っていましたが、やがてこの聖歌隊は、1990年には「エンジェル・ヴォイセズ」(Angel Voices)に改名し、さらに1998年に聖歌を基本としたユニークなサウンドを作るという方針に転換したので、それにあわせて名前を現在の「リベラ」へと改名しました。従って、リーアム・オケーンは「リベラ」のごく初期のソリストでもあります。リーアム・オケーンは、ストレートアンドナロー、ブルー・ピーター、賛美歌、GMTVなど、1993年から2001年までのいくつかのテレビ番組に出演しています。現時点では、彼はジム・ザ・リスと呼ばれるバンドで演奏しています。ボーイ・ソプラノの時代は、女の子のようなルックスとふんわりとした温かみのある歌声で人気だったようです。

       32 エドワード・バロウズ(Edward Burrowes 1985~  )

 1985年生まれのエドワード・バロウズは、コナー・バロウズのすぐ下の弟で、聖パウロ・ボーイズに参加した後1997年にヘッド聖歌隊員に任命され、その後セント・ポール大聖堂の聖歌隊で活躍し、トップソリストをつとめていました。エドワードは、小さいときは「名前をコナーに変えたい。」と言うほど兄に憧れており、それは同時に微妙なライバル関係になったとも推察されます。1999年3月にCD「ブルーバード」のキャンペーンのため兄コナーと共に来日し、可憐な美少年ぶりは雑誌「AERA」の表紙を飾りました。
 エドワードの歌声は英国の伝統的なボーイ・ソプラノらしい声です。繊細で可愛い歌声ですが、不安定感はありません。ただ、「ブルーバード」の録音が、エコーを多くかけている感じがするのが残念です。1999年8月には「ボーイズ・エアー・クワイアー」の中心として再来日しましたが、もうこのときには、残念ながら、変声期に入っていたようです。

       33 テリー・ウェイ(Terry Wey 1985~  )

  テリー・ウェイは、1985年9月15日スイスの首都ベルンで、スイス系アメリカ人の音楽家一家に誕生しました。4歳で彼の最初に鑑賞した好きなオペラ、G.ヴェルディの『イル・トロバトーレ』を見た後、彼はオペラ歌手になりたいと思ったそうです。6歳頃より、地元の合唱団に入ってベルン市オペラハウスと他のいろいろなコンサートででソリストをするほどの活躍をしていましたが、1995年から1998年の間は、ウィーン少年合唱団に在籍して、トップソリストとして活躍の範囲を広げ、その頃の記録は、日本でもCD化された『ヴォイス・オブ・エンジェルズ-少年合唱団の天使たち-』にもシューベルトの「楽に寄す」の独唱として残されています。ウィーン少年合唱団を卒団したあとは、「歌うために生まれて」「オー ホーリー ナイト」の2枚のCDを出しています。完全に変声したあとは、フォノ フォーラム誌によって世界最高のカウンターテナーの 1 人と見なされており、最も権威のあるアーリー ミュージック フェスティバルの定期的なゲストであり、このレパートリーの最も有名な指揮者と定期的に仕事をしています。 オペラの舞台では、オベロン (ブリテン: 真夏の夜の夢)、リナルド (ヘンデル: リナルド)、ルッジェーロ (ヴィヴァルディ: オルランド フリオソ)、エンジェル 1/ザ ボーイ (ベンジャミン: 皮膚に書かれたもの) など、さまざまな役を演じました。最近では、2021/22シーズンのコンサートをバッフウォッヘ・アンスバッハ、ハープサル古楽音楽祭(エストニア)でデビューし、ザルツブルク音楽祭でチンクエチェントと共演する予定です。 有名なフライブルク バロックオーケストラは、大晦日のコンツェルトハウス フライブルクでのカウンターテノール ガラの復活や、2022 年 3 月のバッハ カンタータのツアーなど、いくつかのプロジェクトに彼を招待しました。ヘンデルのクセルクセスの大成功の後、彼は戻ってきました。 デュッセルドルフのドイツ・オペラ・アム・ラインの舞台で、バッハのクリスマス・オラトリオを上演。 さらなるコンサートへの招待により、アーティストは、ソリストとして、またさまざまな声楽グループと共に、フィルハーモニー エッセン、コンツェルトハウス ドルトムント、コンセルトヘボウ アムステルダム、ウィーン楽友協会、テューリンガー バッハヴォッヘン、ネットヴェルク アウデ ムジーク ユトレヒト、ハイデルベルガー フリューリングへと導かれ、カウンターテナーとして活躍しています。なお、5歳下のロリン・ウェイは、実弟です。

      34  ルートヴィヒ・ミッテルハンマー (Ludwig Mittelhammer 1988~   )

  1988年ミュンヘン生まれのルートヴィヒ・ミッテルハンマーは、テルツ少年合唱団に入団し、2000年頃ソプラノのソリストとして活躍しました。その時期は、ちょうど、テルツ少年合唱団が来日した時と重なり、映像も残っています。声は滑らかで伸びやかであり、明るい響きで芯の強そうな感じがします。そのことが評価を受けて、帰国したあと、三枝成彰作曲のカンタータ「天涯」のソリストとして、ルートヴィヒ・ミッテルハンマーだけまた再来日してCD収録をしました。まだ、日本語の発音は不十分なところもありますが、歌そのもの、声の輝きは傑出しています。変声後も声楽を学び続け、2009 年から 2015 年までミュンヘン音楽舞台芸術大学で声楽を学び、2011 年 9 月から 2014 年までバイエルン劇場アカデミー アウグスト エヴァーディングのメンバーとして活動しました。ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、ブリジット・ファスバンダー、アン・マレー、エディス・ウィーンズによるマスタークラスで、学びを深めました。合唱団のバスパートを出発点にして、オペラに進出し、2016/17 シーズンでは、フランクフルトオペラ座で「ラ・ボエーム」のショナール、「リゴレット」のマルロ、ニュルンベルク州立劇場では「セビリアの理髪師」のフィガロ、「メリーウィドウ」のダニロなど、バリトンの諸役を演じています。また、コンサートソリストとしても活躍しています。

      35 ジョナサン・レンデル(Jonathan Rendell 1988~   )

 ジョナサン・レンデルは1988年にイギリス バークシャー州ウィンザーで生まれました。ウィンザー城の修道院に住んでいて、彼はセントジョージ礼拝堂で合唱団を聴いて育ちました。ジョナサン・レンデルは、そのような家庭の伝統を継承しています。彼の父と祖父は両方ともウェストミンスター寺院の首長司祭でした。彼は、幼いころからウィンザーのイングリッシュスクールのトリニティ・セント・ステファン教会でピアノとバイオリンの初期の音楽訓練を始めました。彼は家族がスコットランドに移住するまで彼が歌ったバークシャーボーイズ合唱団のメンバーになりました。そして、ジョナサンは1999年にエジンバラの聖マリア教会大聖堂の合唱団に加わり、毎年250を超える礼拝で歌い、合唱団のコンサート、放送、録音に参加しました。2001年から2002年にかけて特に大活躍し、2002年にCD「SUCH A FEAST(そのような饗宴)」を録音しています。その後は、セント・メリーの音楽学校でヴァイオリンを学びました。CDに残されていその歌声は、バッハ・ヘンデルからフォーレ・ブリテン・レーガーなど各国古今東西の宗教曲が歌われています。透明度が高く清澄な響きで、伝統の重みを感じさせる品格のある歌を歌っています。

      36 イーモン・マルホール(Eamonn Mulhall 1988?~   )

 イーモン・マルホールは、アイルランド出身のボーイ・ソプラノで、2000~2001年に聖歌を中心とする2枚のCDをリリースし、2002年3月には フェイス・チェオイル・フェスティバル(Feis Ceoil Festival)のパーシー・ホワイトヘッド・カップ(Percy Whitehead Cup)で歌唱部門で 2 位になりました。CDに刻まれた歌声は、明るい美声でリズミカルであり、それぞれの曲にあった表現をしています。
 変声後は、ダブリンで音楽とフランス文学を学び、その後ロンドンの王立音楽大学と国立オペラ スタジオで学び、オペラのリリックテノールの諸役で活躍しています。その若々しい存在感と明るく機敏な声は、W.A. モーツァルト、ゲオルク フリードリヒ ヘンデル、ドニゼッティ、ロッシーニのリリック テノールの役に最適です。 彼はまた、非常に熟練したバロックおよびクラシックのオラトリオのソリストでもあります。 彼のオペラへの関与には、オッフェンバッハの Barbe bleu (グレンジ パーク) のプリンス サフィール、上演されたメサイア、ディドの後 (イングリッシュ ナショナル オペラ)、L.v. ウルマンの「アトランティスの皇帝」(オペラ シアター カンパニー)のベートーヴェンのフィデリオと兵士、W.A. モーツァルトの「コジ ファン トゥッテ」のフェランドと「ドン ジョヴァンニ」のドン オッタヴィオ(共同制作オペラ アイルランド / DIT カレッジ オブ ミュージック)、「エツィオ」のマッシモ(ロンドン ヘンデル) フェスティバル)、フランシス・プーランクのレ・ダイアローグ・デ・カルメリテス(RCM)のオモニエ、G. ヘンデルのタメルラーノ (スコットランド オペラ)、ロッシーニのイル バービエール ディ シヴィリア (ENO) のアルマヴィーヴァ伯爵、W.A. モーツァルトの「死の世界」 (ウェールズ ナショナル オペラ) のベルモンテ。
 2011 年 5 月、イーモン マルホールは、ロイヤル オペラ ハウス コベント ガーデンで、ケイティ ミッチェル監督のジェームズ マクミランのクレメンシーの世界初演でデビューしました。 2011年から2012年のシーズンのプロジェクトには、ビクター・ハーバートのオペレッタ「アイリーン」の録音、リバプール・フィルハーモニー管弦楽団とのリバプールでのコンサート、ダブリンの国立コンサートホールでのコンサートが含まれていました。 2012年から2013年にかけての彼の関与の中には、クレメンシーとのスコティッシュオペラでのデビュー、クリスマスコンサート、J. バッハの聖ヨハネ受難曲 (BWV 245) と J. ハイドンのダブリンの創造。 彼はまた、Chapter Productions のために Jerome Kern のオペレッタ Roberta を録音しました。 2013-2014 シーズンの公演には、ブラチスラヴァでのジュビツァ チェコフスカの新作オペラ「ドリアン グレイ」のタイトルロール、カーディフでのメトカーフの「ミルク ウッドの下」の世界初演、G. ダブリンのマハゴニー市の興亡で、ミッド ウェールズ オペラとジェイコブ シュミットと共に、ヘンデルの「エイシス」と「ガラテア」。 2014年から2015年にかけて、マリオットのサロメでウェックスフォード・フェスティバルにデビューし、ラ・チェネレントラでラミロとしてデビューします。 彼はドリアン・グレイとしてブラチスラバにも戻り、2015年にプラハでデビューした際にもこの役を歌っています。
 頻繁にコンサートでソリストを務めるイーモン・マルホールは、この国の著名な合唱団の多くで歌ってきました。 ハイライトには、RTÉ コンサート オーケストラとのプッチーニのメッサ ディ グロリア、ロイヤル アルバート ホールでのメサイア、アイリッシュ バロック オーケストラとのコンサートが含まれます。 彼のレパートリーは J. S. バッハのマテウス受難曲 (BWV 244)、フェリックス・メンデルスゾーンのエリヤからベンジャミン・ブリテンの聖ニコラスまで幅広いレパートリーを持っています。

        37 ロリン・ウェイ(Lorin Wey 1990~  )

 ロリン・ウェイは、1990年4月3日スイスの首都ベルンでスイス系アメリカ人の音楽家一家に生まれました。兄のテリーがウィーン少年合唱団に入団したため、1994年に彼はウィーンに移りました。ロリンはウィーン合唱団の幼稚園・小学校に通いました。その後、兄の後を追うように ウィーン少年合唱団の一員として歌う一方、むしろ、主としてウィーン国立歌劇場等のオペラで歌いました。何枚かアルバムも出しています。オーストラリアとニュージーランドへのツアーの後、彼は合唱団を去り、ウィーンの音楽高校に入学しました。 優秀な成績で音楽学の学士号を取得した後、ウィーン市立音楽芸術大学でガブリエレ・シマとエレナ・フィリポワに独唱と歌曲とオラトリオを学びました。1999年、ロリンは指揮者のシャルル・デュトワがモーツァルト神父を演じた日本映画で少年モーツァルトを演じました。透明度の高い歌声で高音が美しく、劇的な表現もできるところに特色があります。このように、変声後は、テノールとして活躍しています。
 近年、ロリンはいくつかの近現代オペラに出演しており、3度のオペラの世界初演を行っています。また、宗教音楽にも造詣が深く、あらゆる時代やスタイルの音楽、特に J. S. バッハの作品やウィーンの古典的なレパートリーで積極的なコンサート出演者です。 彼はアウグスティヌス教会、イエズス会教会、帝国礼拝堂などウィーンの最も壮大な教会で定期的にテノールのソリストを務めています。

       38 ジャン=バティスト・モニエ(Jean-Baptiste Maunier 1990~  )

 ジャン=バティスト・モニエは、2004年に制作され翌年日本でも公開されたのフランス映画『コーラス(Les Choristes)』で映画デビューしました。フランス南部のバール県ブリニョール出身で「サン・マルク少年少女合唱団」のソリストでもある彼は、その整ったルックス(特に横顔が美しい)と優しく綺麗な透明感のあるソプラノが製作陣の目に留まり、約3000人にも及ぶ候補者の中から見事ピエール・モランジュ役の座を射止めたそうです。撮影当時は13歳でした。映画『コーラス』の成功で一躍ヨーロッパ中の女性を虜にするアイドルとなりましたが、その後も「サン・マルク少年少女合唱団」に籍を置き、規則正しい生活を送っていたそうです。なお、当時「サン・マルク少年少女合唱団」のDVDが日本でも発売されました。  2004年夏には日仏の文化交流のため、合唱団の一員として来日し、奉仕を目的とした慈善公演のため、ホテルなどには宿泊せず、仲間たちと一緒に日本の一般家庭にホームステイするという"貴重な経験"も積んだそうです。来日時には、日本語で「赤い靴」も歌いました。『コーラス』出演で映画製作の楽しさを知った彼は、役者の道に進むことを決意し、現在は、俳優兼歌手として活躍しています。

      39 ハリー・セヴァー(Harry Sever 1991~  )

 1991年にロンドンで生まれたハリー・セヴァーは、5歳でレッスンを始め、早くより才能を発揮しました。8歳でウィンチェスター聖歌隊員となり、コンペティションにも優勝して奨学金を得て、2003年から2004年にかけてBBCラジオやコンサート活動など等次々と活動の場を広げていきました。また、同時期にフォーレの「レクイエム」等の録音も行っています。さらに、2004年12月の日本へのBoys Air Choirツアーでは、主要ソリストとして日本でもその存在を知られるようになりました。14歳のときに録音したシューベルトの「美しい水車小屋の娘」のCDは、記念碑的作品を超えたものになっています。彼は少年時代、歌とは別に、音楽的才能はピアノとヴィオラとオルガンにまで及んでいます。彼は定期的にウィンチェスターカレッジチャペルでサービスのためのオルガンを演奏していました。これに加えて、クリケット、サッカー、テニス、ラケット、ドラマも楽しんでいました。彼の他の関心事には、オペラ、映画、旅行などがありました。そのような幅広い興味関心から育まれた教養が彼の歌を支えてていたのでしょう。
 なお、現在では、指揮者・作曲家として活躍しており、ご自身の音楽活動のホームページももっています。

      40 アレックス・プライアー(Alex (Alexander) Prior 1992~ )

 アレックス・プライアーは、1992年生まれ。本名はアレクサンダーで、アレックスはむしろ愛称というべきでしょうか。イギリス人の父親とコンスタンティン・スタニスラフスキーの孫であるロシアの母親の間に生まれました。ボーイ・アルトとしてCDも出し、ステージにも立っていますが、8歳で作曲を始め、交響曲、コンチェルト、バレエ2曲、オペラ2曲、ベスランの子供たちのためのレクイエムなど、40以上の作品を書いています。13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学し、3年生からボリス・ティシュチェンコとオペラと交響楽団との交響曲を学び、アレクサンダー・アレクセフ(ハンス・スワロースキーの弟子)の交響曲を学び、その後は、指揮者と作曲家として活躍をはじめ、むしろ作曲家として注目を浴びています。
 さて、少年時代に残した歌声は、聖歌隊系の透明で繊細な歌とは違って迫力のある輝きに満ちた歌声で、当時は、「小さなパヴァロッティ」と評されていました。彼は、有名なロシア劇場改革者コンスタンチン スタニスラヴスキーの孫です。2002年12月ソロのデビュー以来、彼は驚異的な若いミュージシャンとして国際的に認められています。アレックスは、7カ国語で歌い、ステージとしてはロンドンアリーナ、モスクワクレムリンの黄金時代のドーム、ニューヨークのカーネギー・ホール等で歌い、また、各国のテレビでも歌っています。また、CDやホームページでは、その華麗な歌声を聴くこともできます。母方の祖国のロシア民謡「カリンカ」は力強く、カンツォーネ「恋する兵士」[帰れソレントへ」など、イタリアのテナー歌手を彷彿とさせるできばえです。また、CDには、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」より「誰も寝てはならぬ」までが録音されており、その声域はテナーまでををカバーしています。

      41 ロビン・シュルツ(Robin Schlotz 1992~  )

 ロビン・シュルツは、ドイツ出身のボーイ・ソプラノで、テルツ少年合唱団に所属し、2004年ごろまでソプラノのトップソリストを勤めていました。ロビン・シュルツの名が多くの人に知られるようになったきっかけは、保護者や後援者のためのコンサートで、モーツァルトの歌劇「魔笛」の「夜の女王のアリア」を歌った映像が公開されたことによります。それより約20年前に同合唱団所属のアラン・ベルギウスによっても歌われましたが、それよりは強めの声です。2005年11月に変声期を迎えました。

       42 ベンヤミン・イーサクセン(あるいはイサッツシェン Benjamin Isachsen 1993~  )

 ノルウェーの少年ソプラノ、ベンヤミン・イーサクセンは、1993年9月21日首都オスロに生まれ、幼い頃より、「他の人を幸せにするために歌いたい」と言っていました。彼は、過去10年間にわたりオスロ大聖堂少年合唱団のメンバーとして定期的なリハーサルと礼拝の公演に参加しました。1999-2008年には、合唱団に所属する一方、声楽教師とのプライベートレッスンをおこなってきました。これらの活動のリズムがベンヤミンの日常生活の特徴であり、それらの内容が彼に確かな音楽教育を提供してきたのです。 2007年夏の間、彼はソールズベリー大聖堂少年合唱団と歌うために選ばれました。彼は大聖堂の寄宿学校に通っていて、毎日の夕べ、朝の礼拝、そしてつぶやきで合唱団と一緒に歌いました。彼はまた、毎年恒例のSouthern Cathedrals Festivalやレコーディングセッションに参加することができました。
 ベンヤミン・イーサクセンはソリストとして何度も演奏しています。彼はノルウェーラジオオーケストラとGrex Vocalisと共にDraumkvedet(Dream Ballad)でEin gut(A Boy)を歌いました。彼は、Det Norske Solistkor(ノルウェーのソリスト合唱団)とThe Norwegian Chamber Orchestraのソリストです。彼はオスロで、Harald王の70歳の誕生日を祝って、Fedrelandssalmen(ノルウェーの賛美歌)と、Felix MendelssohnのHear My PrayerをKatarinaGosskor(Katarina Boys Choir)で行いました。彼はオスロ大聖堂合唱団とグレゴリオ唱歌との共演でアレグリのMiserereをコンソーシアムヴォーカルとトリオメディアヴェルとの共演で歌いました。彼は、また、オスロ大聖堂少年合唱団の2枚のCDとオスロ大聖堂の毎年恒例のクリスマスコンサートでソリストを務めています。
 ベンヤミン・イーサクセンは、葬儀、結婚式、洗礼式、オスロコンサートホールのソリストとして、またNRK(Norwegian Broadcasting Corporation)の多数のラジオ番組やテレビのトークショーGrosvoldで、より大きな作品を演奏してきました。彼の声は、ノルウェーのホラー映画Fritt vilt IとII(Cold Prey)の一部のシーンでも聞くことができます。 2014年以来、彼はDet Teologiske Fakultet(UiO)で学んでいます。彼は現在も、オスロに住んでいます。

      43 マイケル・バネット(Michael Bannett 1993?~    ) 

 マイケル・バネットは音楽一家に生まれました。 彼の母親はピアノ教師兼合唱団員、父親はアマチュア音楽家、妹のローラはサンフランシスコ少女合唱団の卒業生です。 彼は幼児の頃から歌い始めましたが、6歳のとき、地元のショッピングモールで全米少年合唱団の演奏を偶然見つけ、すぐにサンフランシスコ少年合唱団に加わりました。9歳のとき、サンフランシスコ・オペラの『ピーター・グライムズ』公演で、ピーター・グライムの弟子であるジョン役のオーディションを受け、このオペラで自分が演技することが好きであることを知り、大きくなったらオペラ歌手になりたいと考えました。また、オペラ以外のジャンルの音楽が好きで、家ではさまざまなスタイルで歌うことを楽しんでいました。
 10 歳のときにテレビの生放送の聴衆の前でシャーロット・チャーチとデュエットした「Pie Jesu」を録画し、11 歳のときソロ CD を作りたいと両親に告げ、その結果、2002 年の春に録音された「Beautiful Soup」が完成しました。
 現在は、バス・バリトンとして、クラシックコンサートのソリスト、プロの合唱歌手であるだけでなく、声楽の教師をしています。  

       44 アンドリュー・スウェイト(Andrew Swait 1994~   )

 アンドリュー・スウェイトは1994年にイングランドで生まれ、6歳から11歳まで、アビースクールテュークスベリーの聖歌隊で歌っていました。彼の人生は、コンサート、録音、そして最も重要なのはアンドリューにとって、テュークスベリーアビーでの毎日の歌唱による奉仕です。 2005年に10歳で、彼は聖歌隊員としての彼の人生についてのテレビのドキュメンタリーで取り上げられ、その年の終わりまでに彼は「ライト・オブ・ザ・ワールド」の主席ソリストとして初めてCDに出演し、録音しました。(このCDは、このホームページのCDのコーナーで採り上げています。) 2006年7月にアビースクールは、閉鎖されましたが、そのとき、アンドリューは2006年にリリースされたテュークスベリー修道院の合唱団の最後のCD、合唱イベントに参加しました。このように、彼の現在および将来の業績はすべて、主に彼は学校を始めてから適切な合唱トレーニングを受けてきたたまものです。
 2006年7月、彼はThe King’s SingersのCDランドスケープとタイムに小さな部分を録音する招待を受け入れたことを喜んでおり、翌年のSignum Recordsからのリリースで高い評価を受けました。 2006年9月、アンドリューはチェルトナムカレッジジュニアに音楽奨学金を授与され、それ以来彼は彼をサポートしており、そこで彼は学術研究を継続し、振付家として働いています。その年の10月に彼は年間最優秀賞のコンテストのファイナリストであり、ウェストミンスター寺院からのBBC放送で特集されました。 2007年5月、Universal Recordsからクラシックボーイバンド、The Choirboysに招待されました。スティーブアボットによって制作され、マーティンニアリーの指示の下で、彼らのクリスマスディスク、ザキャロルズアルバムは、クラシックFMチャートで7番に入り、2008年のクラシカルブリットアワードにノミネートされました。 アンドリューはまた、バーミンガム市合唱団、チェルトナムバッハ合唱団、オリエルシンガーズ、リージェンシーボイスとソリストとして出演するよう招待されています。彼はテュークスベリー修道院、グロスター大聖堂、アルデバラ、北京、ミュンヘン、クラクフ、キエフで公演しました。 2008年3月、ドイツグラモフォンから招待され、ロシアのソプラノアンナネトレプコとチェコフィルハーモニーと一緒にプラハでレコーディングを行い、2008年5月にロイヤルアルバートホールでクラシックブリットアワードを演奏しました。その後のことは不明です。

     45 ウィリアム・ダットン(William Dutton 1995~   )

 ウィリアム・ダットンは、ポール・ダットンの息子であります。しかし、声質は透明度が高く繊細な父と比べると明るく張りがあります。クワイヤーボーイズに入ったころは、12歳で、英国聖エイダン教会高校の生徒であり、ハロゲートの聖マルコ教会合唱団の聖歌隊員でもありました。 2006年10月、彼はBBCラジオで定期的に放送して以来、BBCラジオ2ヤングコリスターオブザイヤーの称号を獲得し、2006年のロイヤルアルバートホールのクリスマスコンサートでは、ホセ・カレーラスと一緒に歌うよう招待されたこともあります。ウィリアムは、BBCプロムスでデビューしました。フォーレの「レクイエム」でBBCナショナルオーケストラとのソプラノソリストとして、ウェールズ合唱団と共演しました。当時の英国全土でソリストとしての需要が非常に高いウィリアムの公演には、ヘンデルの「メサイア」、メンデルスゾーンの「エリヤ」、ブリテンの聖ニコラス、バーンスタインのチチェスター詩篇。映画作品には、ケネス・ブラナー監督、ジェームズ・コンロン指揮のモーツァルトの「魔笛」の新作におけるタイトルロールと「ファーストボーイ」の役割の最初の代役として「リトルプリンス」(BBC /ソニー)が含まれています。また、ウィリアムはヴァイオリニストでもあり、ライモンダ・ココに師事しています。彼は2003年から国立子供オーケストラのメンバーであり、昨年は彼の卓越した才能が認められてNCO-リーヴァーヒュームトラスト奨学金が授与されました。ウィリアムの他の趣味には、サッカーと野生動物が含まれます。これまでのキャリアの野心は素晴らしく多様で、オペラ歌手、指揮者、名手バイオリニストからドッグウォーカーやアイスクリームセールスマンまで多岐にわたります。変声後は、むしろヴァイオリニストとしての活躍が顕著です。

        46 アロイス・ミュールバッハー(Alois Mühlbacher 1995~  )

 ボーイ・ソプラノの時代に4枚のCDを発売しているアロイス・ミュールバッハーは、1995年、オーストリア中部のヒンターシュトーダーに生まれ、2005年に聖フローリアン少年合唱団に入団することで才能を開花させます。どちらかと言えば、地味な歌声の少年合唱団には似つかわしくない華やかな声と技巧的な歌いっぷりで驚かされます。
 初めてのソロCD『ALOIS UNERHORT/ALOIS~The Boy and his Voice』が録音されたのは2009~2010年にかけてで当時14~15歳、2011年にリリースされました。このCDは、オペラアリア集といったもので、いきなりモーツァルトの「魔笛」から「夜の女王のアリア」で超ド級の怒りに満ちた金切声で始まります。また、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」から「私の大好きなお父さん」や「蝶々夫人」から「ある晴れた日に」は、清純な娘というよりもはかなり成熟した女性の歌を感じさせる歌を歌います。さらに、J.シュトラウス2世の「こうもり」では、コケティッシュなキャラクターでコロラトゥーラの技巧を聴かせる歌を歌ってくれます。このように多様な歌を聴かせてくれますが、映像でその容姿を見ると、スマートな少年というよりむしろぽってりした大柄なおばちゃんタイプでこのような身体から発する声だからこそ、このような華麗な歌が歌えるのだと納得してしまいます。アロイスはモーツァルトの「魔笛」(ルクセンブルグ、ウィーン、ザルツブルグ、エクス・アン・プロヴァンス)のファースト・ボーイ、トキオのイニオールド、シェパード・ボーイ、ウィーン国立オペラ座のオーベルトとしてステージに登場し、フロリアンボーイズの合唱団の作品(パミナ、ナイトの女王、ロザリンデなど)に出演しています。彼はもともと女性ソプラノのために書かれたオペラアリアに特別な関心を抱いています。彼の才能を認めて、ソロCDのためのレコーディングが行われました。アルバム「Unerhort」は2010年にリリースされました。さらに2つのアルバムがデュエットとLiederで録音され、彼は合唱団の他の3人の男の子とGustav MahlerとRichard Straussによる作品とともに録音されました。変声後も、メール・ソプラノ(カウンター・テノール)として、さらに色気のある歌を歌っています。

       47 モーレイ・ウェスト (Moray West  1995~   )

 モーレイ・ウェストは、英国スコットランドのグラスゴーに生まれました。スコットランド国立少年合唱団とスコットランド王立交響楽団付属ジュニアコーラスで訓練を積んでいます。「Moray West Scotland Boy」と名前を題にしたCDは、古楽・オペラのアリア・宗教曲・民謡・現代曲といろいろなジャンルの歌を歌っていますが、それぞれの雰囲気に合うように歌い分けているところが心に残ります。自己主張の強い歌ではなく、それぞれの曲に合わせた歌い方ができる少年だと感じました。それよりも驚いたことは、モーレイ・ウェストが、サイモン・コーウェルによって2006年初めに11歳から14歳までの6人の男女児童で結成されたイギリスのコーラスグループ「Angelis」の中心的メンバーであり、デビューアルバムは2006年11月6日にリリースされましたが、35万枚以上販売し、英国のアルバムチャートでは第2位に達し、スコットランドのアルバムチャートでは第1位を獲得したことです。なお、このアルバムは、クラシック・クロスオーバーであり、ソロのCDと同じ傾向の歌が歌われています。なお、2007年初頭、サイモン・コーウェルはこのグループを解散しました。

      48 デニス・チメレンスキー(Dennis Chmelensky 1995~    )

 デニス・チメレンスキーはドイツのベルリンで生まれました。幼少期から音楽的才能を発揮し、5歳からヴァイオリンを習い、7歳で副楽器としてピアノを加えました。 8歳の時、彼はベルリン国立歌劇場に受け入れられ、そこで彼の声の才能が訓練され、指揮者のダニエル・バレンボイム、サー・サイモン・ラトル、ケント・ナガノの下でソリストとしてステージに出演する機会を得ました。同時に、彼はライニッケンドルフの音楽学校で、後にベラ・バルトークの音楽学校で予備訓練を受けました。また、ベルリン国立歌劇場で合唱団として歌い始めました。ボーイ・ソプラノとして、2008年ドイツのユーゲント音楽コンクールで優勝。 2009 年には、ヨーロッパ・ホープ賞を受賞し、ソニー ミュージックからデビュー アルバム「DENIS」がリリースされました。このCDは、クラシックからポップスまで幅広い選曲がされていますが、そのどちらにおいても、透明度の高い歌声でありながら、決して線の細い声ではなく、大きな盛り上がりを見せてくれる歌を歌っています。また、メランコリックな雰囲気をたたえた曲もあり、優れた演奏を残しています。
 ボーイ・ソプラノの時代だけでなく、変声後バリトンとしても、多くの賞を獲得し、現在は、主に、オペラの舞台で活躍しています。また、俳優としても、映画「トロイの不思議な宝物」で助演男優を務めました。

      49 ヘルドゥール・ハリー・ポルダ (Heldur Harry Põlda 1996~   )

  ヘルドゥール・ハリー・ポルダは、1996年、エストニアのクレサーレ生まれ、15歳ぐらいまでボーイ・ソプラノを維持した時に3枚のCDを録音しています。西ヨーロッパでは、ボーイ・ソプラノという言葉から「繊細」というイメージを持ちがちですが、ヘルドゥールの歌声は、むしろ、しっかりとした明瞭な歌声で、ボーイ・ソプラノによってよく歌われるクラシックの名曲からミュージカルでも、『オリバー!』の「愛はどこに」から『マイ・フェア・レディ』より「君住む街で」のようなテノールのナンバーまで、器楽曲が原曲であるもの(アルビノーニの「アダージオ」やショパンの「別れの曲」)までいろんなジャンルの歌に挑んでいます。エストニア語で歌われているものもありますが、聴いていて全く違和感を感じません。それだけでなく、その歌の神髄に迫る歌をしているところが高く評価されます。
   ボーイ・ソプラノとしてのポルダは、8歳でオペラの舞台にデビューし、現在までにマイルズ(ブリテンの『ねじの回転』)、アモール(グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』)、ヌキ( 子供向けミュージカル「ピピ! ヌキ! プッ!」、エリック (モーリー・イェストンのミュージカル「ファントム」)、アルノ (アンティ・マルグステのモノオペラ「モノローグ」) – 同様に、レラ・アウエルバッハのロシアン・レクイエム、ロクサーナ・パヌフニクのウェストミンスター・ミサ、ガブリエル・フォーレのレクイエム、ガリーナなどの弁論作品も含んでいます。 特に、2008年、『ねじの回転』でのマイルズ役が評価され、エストニア文化基金の年間賞を受賞し、このような賞を受賞した最年少の音楽家となりました。 また、エストニア合唱協会から協力賞も受賞しています (2010 年)。 ヘルドゥル・ハリー・ポルダは、イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシア、チェコ共和国、ハンガリー、フィンランド、スウェーデンなど、さまざまな国で数多くの合唱団やオーケストラと共演してきました。 多くの著名なミュージシャンとのコラボレーションも行っています。 第 25 回全エストニア歌謡祭の聴衆は、団結した合唱団を率いたソリストとしての彼のことを覚えています。 2011年7月、ヘルドゥル・ハリーはバチカンで行われた教皇ベネディクト16世の司祭就任60周年を祝う芸術家オマージュの祝典で、アルヴォ・ペルトの作品『Vater unser』を作曲者自身のピアノ伴奏で演奏した。 2010 年秋、ERP はヘルドゥル ハリーとハンドベル アンサンブル アルシスをフィーチャーした CD“ Terra Mariana” をリリースし、2011 年にはCD“Cantus angelicus”とCDシングル“Vater unser”をリリースしました。
 2015年にタリン音楽高校で指揮を専攻し、2019 年にロンドンのギルドホール音楽演劇学校でクラシック歌唱を専攻して卒業しました。彼はエストニア国立歌劇場少年合唱団の長年のソリストです。その後、彼はイギリスのギルドホール音楽演劇学校を古典歌唱で卒業しました。 2019年以来、エストニア国立歌劇場の奨学金保持者です。 2020年以来、彼はタリン工科大学のアカデミック男性合唱団の指揮者でもあります。

       50 ヨナ・シェンケル ( Jonah Schenkel 1999~  )

  少年合唱団や聖歌隊には、団によっても違いますが、数年に一人傑出した名ソリストが誕生します。ヨナ・シェンケルは、スイスで有名なポップス歌手であり俳優であったマルティン・シェンケルの一人息子として1999年に生まれましたが、父マルティンはヨナが3歳の時に早逝しました。しかしその歌の才能は、息子に引き継がれ、やがては地元のチューリッヒ少年合唱団でソリストとして活躍しました。以前父親のファンであった地域の応援もあったそうです。合唱団関係者も彼の素晴らしい歌声を後世に残すためにペルゴレージの「スタバート・マーテル」ヘンデル/モーツァルト/J.S. バッハ/フランク/シューベルトの「歌曲集」としてCDに残しました。「スターバト・マーテル」の時の歌声は、繊細ですが、「Ave Maria・Rejoice・Hallelujah」は、2014年4月に録音されたので14歳か15歳のころの歌声と推定されますが、声が以前よりも太くなって、より声量と力強さが増しています。

       51 オリバー・バートン(Oliver Barton 2001~    ) 

  オリバー・バートンは、イギリスのサウスウェルズ出身で、父クリストファー・バートンが、同大聖堂聖歌隊の指導者健オルガニストを務めていたニューポート大聖堂聖歌隊に所属していました。どちらかというと、この歌声は、イギリスの聖歌隊員の素養をもちながらも、柔らかさと、ときに陰影に富んだ歌声です。そのように感じる部分の声は、ソプラノというよりも、メゾ・ソプラノ的な声ですが、音の輪郭が優しくにじんでいます。CD“A Treble's Voice" は、13歳ぐらいの歌唱でしょうか。それぞれの歌をかなり歌を歌い込んでいる感じもしました。合唱とともに歌う歌も、ソロの歌声が浮かび上がってくるような感じがして、ソリストはこうでなければと思わせます。シューベルトの歌曲が3曲入っていますが、こちらの方が聞きなれているので、親しみがもてました。

        52  アンソニー・ミュレサン (Anthony Muresan 2002~   )

  ドイツのアウレリウス少年合唱団に所属するアンソニー・ミュレサンは、2002年10月6日生まれで、幼い頃から音楽が大好きで、4歳のときにクリスチャン・クネベルからピアノのレッスンを受け始めました。クネベルは、アンソニーの才能を見抜き、2008年には、アウレリウス少年合唱団に入団させて歌い始めました。清純で気品のある歌声ですが歌うジャンルも幅広く、宗教曲やシューベルトの「君こそわが憩い」のような安らぎのある歌からオペラアリア・ミュージカルナンバーのような活力のある歌まで、歌いこなします。11歳の2014年には、デビューCD"Love and Hope"を世に送っています。そこでは、オペラアリアや歌曲などを聴くことができます。とりわけ、「ハレルヤ!」は、祈り心が深さが伝わってきます。
 2011年からの彼のピアノ教師はアソトス・サファリディスになり、CDレコーディングを扱っています。さらに、アンソニーは2013年から2014年10月まで、経験豊富なバリトンのマークアンドロナケから定期的に歌のレッスンを受けました。そして2014年10月以来、アンソニーは高度に研究されたボイスティーチャーのクローディアウェールスタインに集中的な歌のレッスンを受けて、ドイツ各地で行われた声楽コンクールで最高の賞を獲得しました。ボーイ・ソプラノとして最も活躍したのは2014~2016年頃です。なお、アンソニー・クラシック(Anthony Classic)と表記されることもあります。
https://soundcloud.com/anthonyclassic

       53 アクセル・リクヴィン(Aksel Rykkvin 2003~  )

   2003年4月11日生まれのノルウェーのボーイ・ソプラノは、5歳の時にオスロ大聖堂の少年聖歌隊のオーディションを受けて合格し、8歳のときから、ボイスティーチャーのヘレーネ・ハール(Helene Haarr)から歌のレッスンを受け、さらにノルウェー国立オペラバレエの児童合唱団で神童ぶりを発揮し、一躍注目を集めました。2015年、彼はオスロのマヨルシュトゥエン学校がバラットデュエ音楽研究所で提供するクラシック音楽の才能のためのオーディションベースのプログラムである「マヨルシュトゥエンでの音楽(MusikkpåMajorstuen)」に受け入れられました。
 2016年1月12歳の時にAksel Rykkvinは、ナイジェルショート監督の 『エイジオブエンライテンメント』オーケストラと共に、ロンドンでデビューアルバムをレコーディングしました。9月にリリースされたバッハ、ヘンデル、モーツァルトのアリア集の「Aksel!」のCDをリリースしたことがもとで、世界的に知られるようになりました。高度な歌の技巧ももっていますが、それを超える歌心があります。とりわけ、ヘンデルの歌劇『アルチーナ』のアリア「人でなし!僕にはよくわかる」や『リナルド』の「私を泣かせてください」、モーツァルトの『フィガロの結婚』の「恋とはどんなものかしら」や「自分で自分がわからない」にその歌心はよく発揮されています。
 2016年3月には、彼はロルフ・ウォーリンの新しいオペラ「Elysium」の「少年」としての国際的な評価を受けました。ファイナンシャルタイムズは、アクセルが「音楽的な保証と豊かなトーンで、ほとんど超人的」であることを書きました。フランクフルト・アルゲマインは、彼を「素晴らしい、素晴らしい自信を持ったボーイ・ソプラノ」と呼びました。なお、当時アクセル・リクヴィンは、アレッド2世と呼ばれていたようです。それは、歌声よりも歌い方によく現れていますが、どの歌においても自分の歌にしています。2017年夏には2枚目のCD『ライト・ディヴァイン ~ トレブルとアンサンブルのためのバロック音楽』を録音・リリースしました。YouTubeに公開される歌声の低音が充実していく中、ついに、2018年1月24日に公開されたモーツァルトの『魔笛』の「私は鳥刺しパパゲーノ」で、バリトンとして、鮮やかに転身しました。いつの間に変声したのか気付かれない間に、自分の中で次の歌声を育んでいたのかもしれません。14歳半ば過ぎまでボーイ・ソプラノを与えられたアクセル・リクヴィンは、ボーイ・ソプラノの期間、ヒーリング音楽の道を選ばず、その歌声を生かすバロック~古典派の音楽に傾注して行きました。
 現在も、自らのYouTubeチャンネルを持ち、シューベルトの「春の夢」等の歌曲やヴォーン・ウィリアムズの歌曲はじめ、各国の歌曲を中心に歌い続けています。
 https://www.youtube.com/channel/UCfU1LDi_Ok54pM8P2wHJW-g

       54 アンガス・ベントン(Angas Benton (2003?~   )

 アンガス・ベントンは、 イギリスのスコットランド出身で、幼い頃から歌い続けており、バタシーの聖ルカ教会の合唱団とイギリスの国立児童合唱団のメンバーでしたが、9歳で聖歌隊員になりました。アンガスはBBCラジオ2ヤング合唱団で優勝しました。 2015年の年間最優秀コンペティションであり、それ以来、BBC1のSongsofPraiseに数回出演しています。 彼はまた、ラジオ4のデイリーサービスやラジオ2の献身的なイースタープログラム「十字架の足元」で定期的にラジオに出演しています。12歳であった2016年に、BBC Young Chorister of the Yearで優勝し、ソロアルバムCD 『Homeward Bound』を録音しました。
 アンガス・ベントンの歌声は、本質的には繊細なやさしい声ですが、それを絞り出すような歌い方をします。ソロアルバム『Homeward Bound』は、日本では「蛍の光」として知られているような歌や子守歌の「スオ・ガン」など、イギリスの伝統的な曲を集めており、それがしみじみとしたもの悲しさを感じさせることもあります。

        55 マイキー・ロビンソン(Mikey Robinson 2004?~  )

 シンガポール在住のボーイ・ソプラノ。本名は、マイケル・智也・ロビンソン。名前からしてわかるようにイギリスと日本のハーフ(両国のよさを兼ね備えているという意味ではダブルといった方がよいでしょう。)4歳から歌の個人レッスンを始め、11歳から音楽大学の声楽講師より本格的な歌のトレーニングを受け始めています。2015年ニューヨークの声楽コンクール(ジュニア部門)で1位を獲得し、同年12月カーネギーホールで行われた受賞者リサイタルに参加。また2016年1月にも米国で行われた音楽コンクールの世界大会にて入賞し、同年6月にニューヨークのカーネギーホール・スターンオーディトリアム大ホールで行われたサマー・ガラコンサートにソリストとして出演しています。シンガポールでは、東日本大震災復興のためのチャリティー・イベントなどにも積極的に参加しています。また、12歳の10月東京の教会と名古屋のスタジオで日本公演を果たしています。2016年12月にはクリスマスソングでシングルデビューすることになり、さらに2017年には16曲入りののCDも発売されました。変声後は、テノールとして歌い始めました。

       56 カイ・トーマス(Cai Thomas 2007~   )

 ウェールズ出身のカイ・トーマスは、現在はイングランドのファーナムに在住していますが、当地のボーン聖トーマス教会で7歳から歌い始め、その純粋で透き通るような歌声が認められて、12歳でデビュー・シングルの「スオ・ガン(Suo-Gan)」をリリースしました。ところが、その「スオ・ガン」はApple Musicのクラシック・チャートで第2位になるなど反響を呼んで、英クラシックFMやBBCラジオでも話題を呼ぶようになりました。BBCラジオ2の「Young Chorister of the Year 2019」ではファイナリストとなっています。さらに、クラウドファンディングなどによって支援が集まり、デビュー・アルバム「SEREN(星)」の製作が実現しました。このクラウドファンディングには、世界から支援が集まり、とりわけ、最近までボーイ・ソプラノであった(現在はバリトン)ノルウェーのアクセル・リクヴィンがこの企画に賛同し、CDで共演することになっています。プログラムは、フォーレやヘンデル、モーツァルトの名曲、エセンヴァルズやオーラ・ヤイロなど現代の人気作曲家の作品、「レ・ミゼラブル」からのミュージカル・ナンバー、そして「スオ・ガン」を含む2つのウェールズ民謡など、バラエティに富んだお気に入り楽曲が含まれています。既にYouTubeに公開されている映像を鑑賞すると、ただ透明度の高い高音がよく伸びるというだけでなく、そこに柔らかな温かみを感じますが、CDにおいても同じことを感じます。変声後の歌は、Youtubeチャンネルに公開されていませんでしたが、2022年、バリトンとしての歌を公開し始めました。

       57 ウィル・ジェームス(Will James 2007?~   )

 ウィル・ジェームスは、13歳で、ジュニアロイヤルアカデミーオブミュージックで声楽を学び、現在はハンプトンコートパレスチャペルロイヤル合唱団とキングズカレッジスクールチャンバー合唱団のヘッドコーリスターを務めています。彼は2019年にBBC2Young Chorister Finalistに選ばれたことを喜んでいます。HanselandGretel(2018)とDieZauberflöte(2019)のロイヤルオペラハウス公演で3倍の役割を果たします。ウィルは、バッキンガム宮殿、セントジェームズ宮殿、セントポール大聖堂、ウィンチェスター、カンターベリー、ソールズベリー、ギルフォード、サザークの大聖堂など、英国の数多くの会場で演奏を行ってきました。 彼はザルツブルク、ウィーン、ベルファスト、アーマー、ダブリンで国際的に演奏してきました。彼はClassicFM、BBC Radio 2、BBC4、Resonus Classics、AcclaimLabelsでレコーディングを行っています。姉のケイト・ジェームス(kate James)とデュエットあるいはソロでCD「Over The Rainbow(虹の彼方に)」録音しました。明るい歌声で、歌詞を明瞭に歌い、歌の輪郭がはっきりするような歌い方が特色です。このCDの中で唯一のドイツリートである「君こそわが憩い」は、繰り返される有節歌曲の部分から次第に高まる終末のもっていき方に才能のきらめきを感じました。

      58 アーチー・ホワイト(Archie White 2007?~    )

 コロナ禍の中の2020年のBBC Young Chorister of the Yearで準決勝まで進むも、惜しくも敗退したアーチー・ホワイトは、7歳でヴァイオリンの勉強を始め、9歳のときにマグダレンカレッジオックスフォード聖歌隊員で学んでいましたが、その後、聖歌隊を離れ、マーク・ウィリアムズやマリア・トンプソンに師事して声楽を学びました。アーチー・ホワイトの志向は、バロック音楽や古典派の音楽であり、現代ではどちらかと言えば、女声やカウンターテナーによって歌われることの多い曲です。2021年、クラウドファンティングによって、バロック音楽を中心とするCDを制作しました。
 現在では変声期を迎えて身長も高くなっていますが、高音は健在で、カウンターテナーになっていくのではないかと考えられます。

      59 マックス・トーマス(Max Thomas 2009?~  )

 令和5(2023)年7月15日関西フィルハーモニー管弦楽団 第339回定期演奏会で行われたアンドリュー・ロイド・ウェッバーの「レクイエム」のボーイ・ソプラノソリストとして、招聘されたマックス・トーマスは、それまで日本では無名でしたが、イギリスのモードリンカレッジ聖歌隊(オックスフォードのマグダレン大学合唱団の元首席合唱団)に所属する当時14歳の少年で、透明度の高いその声は一声聴いただけでも、心が清められる美しさを持っています。その歌は、個人のYouTubeにもアップされています。
 同年のBBCヤング・コリスター・オブ・ザ・イヤー2023の準決勝でジョン・ラッターの「クレア・ベネディクション」を歌い決勝に進出しました。そこでは、ボブ・チルコットのクリスマス・キャロル「羊飼いのキャロル」を歌いました。

      60 ルカ・ブリュグノーリ(Luca_Brugnoli 2010~   )

 ルカ・ブリュグノーリは、 リベラで頭角を現し、2022年には、ソロアルバム実現のためクラウドファンティングを行い、世界各国から寄付が寄せられ、2023年春にそれが実現しました。ルカの高音域は、特に非常に美しく、曲の背景にある音楽の本質や、そこに流れる感情を理解して歌っていることが伝わってきます。
 ルカは、7歳で学校で歌のレッスンを始めました。3年目に、彼の家庭教師は彼の並外れた歌唱力に気づき、合唱学校に申し込むことを提案しましたが、ルカは若くして下宿することを望まなかったので、代わりに家族は一緒に歌える素晴らしい合唱団をロンドンで見つけました。その合唱団は、リベラ。
 2018年以来、リベラでの彼の成功は、彼がソロアーティストとして成功することを期待し、ソーシャル メディアでの存在感は高まっています。「リベラとのクリスマス」「リベラのクリスマス・キャロル」(2019)「If 」(2021) では、ソロを歌い、テレビ番組にも出演して歌っています。さらに、BBC Young Chorister of the Year 2022の結果、ルカは準優勝を獲得しました。
 そして最近はクリスマスシングルを発売しました。(Luca Brugnoli「When Christmas Comes to Town - Single」 )2023年には、5月末から6月上旬にかけて日比谷音楽祭のため、その一員として来日しました。

      61 マラカイ・バヨー(Malakai Bayoh 2010~   )

 2010年にイングランド南東部ケント州グレーブセンドでアフリカ出身の両親の下で生まれ、現在(2023年)は、西ロンドンのカーディナル・ヴォーン記念学校で学んでいます。 この学校は素晴らしい合唱で有名です。同時に、彼が7歳だったとき、母親は7歳の時に彼を地元の合唱団に入会させました。サザークのセントジョージ大聖堂で合唱団員として歌い始めました。 また、カーディナル・ヴォーン記念学校に通い、スコット・プライスの指揮の下、同校の評判の高いスコラ・カントルムで歌っています。 彼は中等学校でオペラやコンサートを行う機会を得、2022年11月にロンドンの名門ロイヤル オペラ ハウスでソロ デビューを果たし、初めて全国的に有名になりました。続いて、2023年4月17日、ポール・ダニエル氏指揮の英国国立歌劇場交響楽団と共演し、ロイヤル・アルバート・ホールにおいてモーツァルトの『ハレルヤ』を歌って輝かしいデビューを果たしました。コロラチュラの技法を身に着けみごとに歌って、サイモンのゴールデンブザー賞を受賞しました。同年6月24日には、アンドリュー・ロイド・ウェバーの「ピエ・イエズ」を歌い、ブリテンズ・ゴット・タレント2023にも出演し、現在はオペラ歌手になることを望んでいます。7月7日には、デビューアルバム『GOLDEN』で、CDデビューしています。2023年8月には、スコラ・カントルムの選抜4人組の一人として来日公演を行いました。

     62 アントニオ・デ・ラ・トーレ(Antonio de la Torre 2010?~   )

 オーストラリア出身で、9歳のときに声楽のレッスンを始め、1年以内にオーストラリア国立アイステッドフォッドを含むオーストラリア各地の地方および全国のエイステッドフォッズで優勝しました。アントニオは10歳のときにオーディションを受け、クリスチャン・バデア指揮によるオペラ・オーストラリアの2020年公演『カルメン』で初めてプロの舞台での役を勝ち取りました。 彼はまた、同年ルウェリン合唱団とシンフォニアのフォーレの「レクイエム」の素晴らしい演奏に招待されたソリストでもありました。
 その後の 2 年間で、アントニオは、2020 年秋の米国プロテジェ国際音楽才能コンクールを含む、米国、シンガポール、ドイツで行われた 3 つの国際歌唱コンクールで優勝しました。 彼はシューベルトの「アヴェ・マリア」の素晴らしいバージョンも録音しており、このライセンスされた録音は国際犯罪ドラマ「Hidden Assets」で取り上げられました。 この時期は、新型コロナウイルスと重なって公演がキャンセルになったことを受け、アントニオはクラシックの傑作を収録した初のアルバム『プリメロ Primero』をレコーディングしました。現在は、変声期を迎え、男声に移行中です。
 アントニオ・デ・ラ・トーレは、天性の歌手というべき資質の持ち主であり、聖歌隊や合唱団に所属する経験がないのにかかわらず、典型的な古典的な高音域のソロ曲に直接入り込むことができます。また、ラテン系とも言える高音の明るい声質こそ、その持ち味といえます。


   このように見ていくと、故ペーター・シュライアー、ホセ・カレーラス、ポール・ダットン、ベジュン・メータ、マックス・エマヌエル・ツェンチッチやテリー・ウェイを除くと、現時点では世界的な声楽家として大成したとは言いがたいようです。また、カウンターテナーとして活躍しているケースが多く見られます。また、ルートヴィヒ・ミッテルハンマー やアロイス・ミュールバッハーやヘルドゥール・ハリー・ポルダのようにこれから伸びていくであろうと考えられる人もいます。しかし、少年時代に残した優れた歌唱によって、世界のボーイ・ソプラノ史にきちんと位置づけられることは確かでありましょう。
 また、ここに紹介した少年たちはその歌声がレコーディングされて、日本にも紹介されたため我々の耳に届くことになりましたが、よい資質を持ちながらもレコーディングされなかった少年は、はるかに多いことでしょう。「変声期」のところで、変声前の声を紹介した世界の名歌手たちは、少年時代かなり有望であったに違いありません。しかし、今ほど録音が簡単にできなかった時代では、回顧録によって想像するしかないのが残念です。さらに、日本では、アレッド・ジョーンズのようにボーイ・ソプラノのソロのCDが発売されることは、極めて稀なことです。海外盤を入手して改めてその実力に気付くこともあります。これからも、録音を入手した段階で、書き加えていこうと考えています。


心に残る少年歌手

 ここでは、私が聞いたことのある代表的な各国の歌謡曲やポップスを中心に歌う少年歌手たちを取り上げ、その感想を中心に述べていきます。また、個人によっては、その歌唱の問題点にも触れていきたいと思います。

       ① ボビー・ブリーン(Bobby Breen 1927?~2016)

 アメリカ映画で、1930年代後半活躍した歌う少年スター ボビー・ブリーンは、貧しいユダヤ系ウクライナ移民の子として1927年に(1928年説もあります)カナダで生まれました。生まれたときの名前は、イサドール ボルスクです。ボーイ・ソプラノとしての彼の歌唱力は、3 歳のときに姉のサリーによって見出されました。両親は特別な関心を示しませんでしたが、姉のサリーは彼がスターの座を獲得するのを手伝い、音楽の先生の助けを借りて、ブリーンはナイトクラブで聴衆の前で演奏する機会を得ました。すぐに、彼はコンクールで賞を獲得し、人気が出て、貧しい家族に多額の収入をもたらしました。ボビー・ブリーンという名前も、英語圏進出のための名前と言えるでしょう。
 それがきっかけで、アメリカに移住した一家は、1935 年にハリウッドに行き、そこで指導者を得て、歌のレッスンを受けました。名子役ジャッキー・クーガンを発見した映画プロデューサーのソル・レッサーは、ブリーンと RKO ラジオ・ピクチャーズと契約しました。この頃、彼は 1936 年にエディ カンターの毎週のラジオ番組で定期的に演奏するようになり、ボーイ・ソプラノとしての彼の才能がリスナーに高く評価されるようになりました。彼の最初の映画「Let's Sing Again」のリリース前に、彼はフレディ・バーソロミューやシャーリー・テンプルなど、同時代の他の子役スターと比較されました。彼のボーカリストの能力に関しては、彼はアラン・ジョーンズ(ミュージカル歌手)、ネルソン・エディ(バリトンの声楽家)、アル・ジョルソン(ジャズシンガー)と同列に語られました。
 彼はデビュー作で共演者のヘンリー・アルメッタとともに主役の座でありました。彼は映画の中で歌劇『リゴレット』の「風の中の羽のように」などを歌っています。彼はまたデッカレコードと契約を結び、1930 年代後半にレコードである程度の成功を収めました。“Let's Sing Again”のタイトル曲は全国的なヒットとなり、1936 年の夏にチャートで 14 位になりました。 その後も、1939年の変声まで、何本かの映画に主演しています。どの映画も、ボビー・ブリーンの可愛い流麗な歌を聴かせるための映画であり、ストーリーなどは、かなり省略されたもので、評価の対象にしてよいかどうかわかりません。変声後も、かつてのファンは健在であり、また、新たなファンも加え、歌手として、ミュージカル パフォーマーとして、生涯にわたって、大小のステージで歌を歌って生活していました。
 歌の特質としては、クラシックの素養を持ちながらも、可愛らしさを感じる甘い声で、クラシック曲から流麗なポップスまでも歌えるというところが持ち味であったのではないでしょうか。

      ② トニー・ブターラ(Tony Butala 1940~  )

 トニー・ブターラは、アメリカ ペンシルベニア州シャロンでクロアチア系の出身で、11人の子供のうち8人目として生まれ、幼少期は、祖父母が所有する農場で過ごしました。ブターラは、1948年にピッツバーグのKDKAラジオで土曜日の朝の番組「スターレットオンパレード」に出演したときに、プロの歌のキャリアを始めました。彼は10代前の頃、故郷のシャロンとその周辺ですぐに人気者になりました。
 1951年、看護師であったブターラの母親は、肺炎に襲われ、回復するまで子供たちの助けを必要としていた妹を助けるためにカリフォルニアに呼ばれました。ブターラの父親は、西海岸で息子にチャンスがあると信じて、トニーが母親と一緒にカリフォルニアに行くことを提案しました。そこで彼は、ハリウッド映画に出演しているロバート・ミッチェル少年合唱団に加わり、1954年まで合唱団と共演しました。映画初出演は、『ムーンライト・ベイ』(1951、ロイ・デル・ルース監督、ドリス・デイ、ゴードン・マクレー主演)のキャロルを歌う少年少女たちの一人として出演し、続いて、『宇宙戦争』(1953 バイロン・ハスキン監督、ジーン・バリー主演)で教会の少年役で。3本目は、『ホワイト・クリスマス』(1954 マイケル・カーティス監督 、ビング・クロスビー、ジーン・ケリー主演)で聖歌隊の一人で出演しています。
   さらに、映画『ドクターTの5000本の指』(1953)のバート役の歌の吹き替えや、ディズニーのアニメ映画ピーターパン(1953)のロストボーイスライトリーの歌声といった声優としても活躍しています。
 ところが、変声期が来ても、指導者のロバート・ミッチェルは彼を合唱団のアシスタントディレクターとして在籍させ、ショービジネスのキャリアを続けながら、教育費用を支払いました。10代の頃、ブターラは「ザ・フォーモスト」と呼ばれるカルテットで歌いました。このカルテットには、後にコニー・スティーブンスとして知られるコンセッタ・インゴリアも入っていました。グループは後で解散しましたが、トニーにとって、それはレターメンとして知られるようになるものの基礎を築きました。
 1958年に誕生したボーカルグループレターメン(The Lettermen)は、1960年代を中心にクローズ・ハーモニーによるカバー曲を多数ヒットさせました。日本ではボビー・ヴィントンのカバー『ミスター・ロンリー』やブライアン・ハイランドのカバー『涙のくちづけ』、ジョン・レノンのカバー『ラヴ』がオリジナルを凌ぐヒットを記録しています。メンバーは当初とは入れ替わりもありますが、2001年、オリジナルメンバーの トニー・ブターラが1998年に設立したボーカルグループの殿堂(Vocal Group Hall of Fame)の殿堂入りグループに選定され、大御所的な存在です。 

   ③ ホセリート (Joselito 1943~    )

 スペインの少年歌手のホセリートの歌声を初めて聴いたのはYoutubeですが、再生回数の多さから、たいへんな人気者であったことが伺えます。その後少しずつ情報が入ってきたので、まとめてみましょう。
 1943年2月11日生まれで、本名はホセ・ヒメネスフェルナンデス。ホセリートは現在では、70代になります。1950年代から1960年代まで、10本の主演映画や、ミュージカルで子役として活躍しました。その後芸能界からメディアの起業家に転身しますが、1990年、銃と麻薬密売容疑でアンゴラ当局によって逮捕。スペインに強制送還の後、投獄されるという山あり谷ありの人生を送ったことを自伝『ホセリートの人生』として出版しました。その中では、刑務所で薬物中毒を克服したことで異なる人生観を得た経験を書いています。
 歌は、「グラナダ」などのスペイン民謡やフラメンコ等のラテン系の歌が中心で、たいへんな歌い巧者です。声とそれを生かす技を備えており、聴かせる歌を歌っています。

   ④  ロベルティーノ ・ロレッティ (Robertino Loretti  1947~   )

  ボーイ・ソプラノ時代のロベルティーノの歌に実際に接したのは、平成11年の6月に日本で発売された25センチLPを手に入れるまでは、小学校高学年の頃、ラジオで「オー・ソレ・ミオ」をただ1度聴いただけでした。当時の日本は、カンツォーネブームで、サン・レモ音楽祭で多くの名曲が生まれた時期でもあります。聴いた印象は、子どもなのにうまいなあというぐらいで、まだ耳が肥えていなかった私には、それ以上の感銘はありませんでした。このイタリアの少年歌手が、戦前・戦後を通じて最大の実力派の人気ボーイ・ソプラノであったことを知ったのは、かなり後のことです。ボーイ・ソプラノの熱心なファンで、日本のボーイ・ソプラノのレコードまで企画した漫画家の竹宮恵子は、「ロベルティーノ」というタイトルの漫画を書いています。ところが、生い立ちを想像して描いたその漫画は、実際のロベルティーノのそれとよく似ていたといいます。
 早速レコードに針をおろすと、竹宮恵子が本に書いていた伝説の歌声が聞こえてきました。曲は、ナポリターナの名曲揃い。声質は、甲高いボーイ・ソプラノではなく少しハスキーなボーイ・アルトですが、歌はこれまで聞き慣れたフェルッチョ・タリアヴィーニやジュゼッぺ・ディ・ステファーノなどのオペラ歌手の歌とはかなり違って、独特の語り口で間の取り方など大人顔負けの歌です。しかも、声も持っているし、たいしたものだと感心しました。
  さて、ロベルティーノは、1947年に8人兄弟の貧しい家庭に生まれ、6歳から教会の聖歌隊で歌っていましたが、10歳のとき、父親が病気になったため、家計を助けるためにパンなどをレストランに配達する仕事をしました。仕事をしながら歌っていた歌が大変にうまいという評判が立って、いくつかのレストランの結婚式で歌うことを求められるようになりました。このように働きながら歌い続け、フェルナンデル主演の映画「ドン・カミロ頑張る」のロケが近くで行われたとき、ペポーネ少年の役で出演するなど活躍の場が広がってきました。その翌年(1960年)のローマオリンピックの時、カフェ・グランド・イタリアで歌っていたら、観光旅行でイタリアを訪れたデンマークのプロデューサーとその妻の目に止まりました。プロデューサーは、その美声に惚れ込み、デンマークに連れて行ってデビューさせたところ、大成功。デビュー・レコードの「オー・ソレ・ミオ」は、世界中で大ヒット、アメリカだけでも、 300万枚を突破したといいます。また、その後、往年の名テノールのティト・スキーパについてきちんと声楽を学びました。そのためか、カンツォーネ・ナポリターナの歌と、「ジャマイカ」のような歌謡曲では歌い方が違っています。しかし、総じて声はボーイ・ソプラノであっても歌はセクシーさのある大人のテイストの歌です。ロベルティーノは、変声後は、ハイ・バリトンとして歌い続けています。1964年のサン・レモ音楽祭に出場し、「可愛いキッス」で入賞もしています。しかし、私が持っているレコードに聴く成人してからのロベルティーノのナポリターナには、あまり心をひかれません。ひたむきな歌心を失ってしまったのでしょうか。たいへん残念です。しかし、ロベルティーノは、ロシア(旧ソビエト連邦)では、今でも人気があるそうです。

  歌声を文章から想像するというのは至難の業です。それでも、歌声が聞けない皆様のために、 25センチLPに収められたカンツォーネ・ナポリターナにおけるロベルティーノの歌の解説でもしましょうか。

 「オー・ソレ・ミオ」
語り口のうまさで聞かせる1曲で、ナポリ方言のニュアンスが生きています。声を張って歌うだけがこの歌の魅力ではないことに気づかせられます。それでも、最後は高音を張って聞かせます。

 「マンマ」
前半の語りがとにかくうまい。ちょっとハスキーな声で静かに語りかけるような歌い方は説得力があります。

 「サンタ・ルチア」
この歌は前半と後半を対比的に歌っており、前半は優しく、後半は熱情的にと、曲想の変化を生かし、長いブレスで歌っています。

 「ラ・パロマ」
まるでクラウディオ・ビルラのような流麗な歌が聞かれます。別れの歌でありながら、悲しみよりも船出という感がします。

 「熱情」
少年にこの熱情を表現させるものは何だろう。清潔な歌い方でありながら、押さえきれないものを感じてしまいます。それは民族の血なのでしょうか。

「帰れソレントへ」
静かな語りに始まって、甘い思い出に耽り、最後は大きく盛り上げるというドラマを感じさせる歌が聞かれます。これは絶唱です。

「忘れな草」
タリアヴィーニ主演の映画で有名になったこの歌は僕の大好きな曲です。これはもう少年の歌ではないと思うほど成熟した歌い方で、「忘れないで」を繰り返し、切ない思いを高めます。

 「アヴェ・マリア」
シューベルトの曲で、「ラ・パロマ」とこれだけがナポリターナとは違います。祈りの曲は少年ののどにあっていますが、とりわけこの歌は清純です。恋の歌と祈りの歌と別れの歌を歌い分けられる少年はそれだけで価値があります。

 「アネマ・エ・コーレ」
こんな切ない歌い方をしないでおくれ・・・僕も切なくなってしまうよ。ビギンのリズムに乗って、とろけるような甘い歌い口で歌われるセレナードは男心をしびれさせます。あ、女心か???

 「ねぐらのツバメ」
語り口のうまさはこのような曲では特に生きてきます。静かな美しい曲ながら、秘めたるものを感じてしまいます。

 聴きながら30分で書いてしまいました。いやいやロベルティーノは聞きしにまさる天才少年です。この後に書いているルネ・シマールやニール・リードとは格が違うという感じがします。ルネ・シマールは「ミドリ色の屋根」があった故、ニール・リードは「ママに捧げる歌」があった故に輝いたのですが、ロベルティーノはその歌に求められるものをきちんとつかんで歌い分けています。それでも、変声期の壁が越えられなかったというのは悲しいことですね。

      ⑤ ハインチェ(Heintje 1955~     )

 1960年代後半、ハインチェが、人気を博しました。ドイツを中心に西ヨーロッパ各国で多くのレコードも発売されました。しかし、日本にその情報が入ってきたのは、1970年代になってからですが、主演した映画も1968~1971年の間に6本あり、そのうちの1本「みどりの讃歌」も短期間東京で公開されました。
 本名はヘンドリック・ニコラウス・サイモンズで、1955年8月12日オランダ南部のブライエルハイデで誕生しました。9歳頃から歌の才能を開花させ、ロベルティーノの曲を歌って周囲を驚かせました。1966年11歳の時にオランダで、「Mama」(原曲はビキシオの「マンマ」)を歌ってデビュー。
 歌声は、ボーイ・ソプラノではなくボーイ・アルトで、堅実さを感じる歌いぶりでなかなかの実力派ですが、ヨーロッパの人気とはうらはらに日本ではレコードも発売されていないのではないでしょうか。ドイツ語で歌われた「Mama」は、しっとりした歌いぶりで、英語で歌われた「I'm Your Little Boy」は、セリフ入りの歌ですが、これまたじっくりと聴かせる大人の雰囲気を持った歌です。4年間で40枚のゴールドディスクを獲得しました。
 青年期も歌い続け、1990年代になってから本格的に歌手活動を再開し、CDも出していますが、少年時代の人気にはほど遠いようです。

       ⑥ ブロウニング・ブライアント(Browning Bryant 1957~2019)

  ブロウニング・ブライアントは1957年1月24日、サウス・カロライナ州ピケンズで誕生し、サウスカロライナ州ピケンズに長年住んでいました。幼い頃にギターを手にした彼は、やがて人前で歌うことを覚え、10歳の頃には近郊の町で開催された社交行事に出演するようになりました。やがて、彼の歌う姿はノース・カロライナ州シャーロットのテレビ番組の司会者の目に留まり、その番組に出演。さらにその放送をたまたまシャーロットに来ていたニューヨークの大手エージェントの人物が目にし、オーディションを経て契約へと至りました。
 1969年、アルバム『Patches』をリリース。エド・サリヴァン・ショーを始めとするテレビやラジオの音楽番組にも出演し、ブライアントはスターへの階段を昇り始めます。1970年にはバート・バカラック&ハルヴィッドの「Raindrops Keep Fallin' On My Head」やザ・ビートルズの「Yesterday」などが収められたセカンド・アルバム『One Time In A Million』を発表。ティーン・エージャーのみならず幅広い層の獲得にも乗り出しました。
 しかし、ブライアントは変声期を機に大人のシンガーへの脱皮をしましたが、1974年にアラン・トゥーサンをプロデューサーに迎えたアルバム『Browning Bryant』をリリース。アイドルからロッカー、あるいはエンターテイナーへの転身を試みました。しかし、芳醇な歌声は非常に成熟していますが、少年時代の歌のイメージとかなり異なることもあり、往年の人気得られず、ブライアントは、進路を変更し、政治学の学位を取得してクレムソン大学を卒業し、ベルク百貨店チェーンの経営に長年従事しました。彼は個人的に曲を書き、録音を続けましたが、残念ながら、2019年に亡くなっています。

       ⑦ ジェイミー・レッドファーン(Jamie Redfern 1957~   )

ジェイミー・レッドファーン (1957~  ) は、イギリス生まれのオーストラリアのテレビ司会者、パーソナリティ、ポップ シンガーです。ジェイミー・レッドファーンは、1957 年 4 月 9 日にリバプールでサムとメアリー・レッドファーンの間に生まれました。彼には5人の兄弟がいます。一家はオーストラリアに移住し、メルボルンに定住しました。彼は、アメリカ生まれの演劇俳優兼歌手である イーヴィー・ヘイズ(Evie Hayes)から歌のレッスンを受けました。彼は 1964 年に、HSV-7 でブライアン ネイラーがホストを務めた、子供向けのバラエティ タレント シリーズであるブライアン アンド ザ ジュニアーズでテレビ デビューし、1970 年まで番組に出演していました。 1968年、彼はハッピー・ハモンドと一緒に、同じチャンネルの初期のカラーテレビのデモに出演しました。レッドファーンは、元ポップスターのジョニー・ヤングと彼の仲間のケビン・ルイスが共同プロデュースしたハプニング '70 (1970) とハプニング '71 (1971) にもゲスト出演しました。
 そのようなことを経て、レッドファーンは、1971 年 4 月から 1972 年初頭まで、子供向けバラエティ番組「ヤング タレント タイム」のオリジナル キャスト メンバーでした。オーストラリアの音楽学者であるイアン・マクファーレンによると、彼は「彼の若さを信じられないような活気のある成熟した声を持っていた... [彼は] トップ 40 ヒット シングルを 4 曲獲得し、130 万ドル以上のレコードを売り上げた」チャートのシングルは、「レインボー・オン・ザ・リバー」/「また会いましょう」(1972年11月)と「ヴィーナス」(1973年8月)の両面A面カバーで、それぞれ8位を記録しました-国内チャートを設定します。
 1972年半ば、レッドファーンはメンターのリベラスと共にアメリカをツアーして、好評を得ました。1972 年のテレビ ウィーク キング オブ ポップ アワードで、彼は「星に願いを」でオーストラリアで最も人気のあるアルバムを獲得しました。彼の2枚目のスタジオ・アルバム『シッティング・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド』(1972年)も16位に達しました。これは、「レインボー・オン・ザ・リバー」/「ウィール・ミート・アゲイン」(1972年11月)の彼のバージョンを収録した両面シングルを提供しました。 15 歳のとき、彼は 2001 年 6 月に Nikki Webster の「Strawberry Kisses」までトップ 10 ヒットを記録した最年少のオーストラリア人アーティストでした。変声後も歌い続けましたが、歌のインストラクターとしても働き、メルボルンの西部郊外でタレント スクールを運営していたオーストラリア ショービジネス アカデミーのディレクターでした。

       ⑧ ダニー・オズモンド (Donny Osmond 1957~    )

  1970年代の初め、オズモンド・ブラザーズ(ジ・オズモンズ)という兄弟のグループが、人気を博しました。初めは、『アンディ・ウィリアムズ ショー』で、バック・コーラスをしていましたが、やがて、独立して、ロック系の歌を中心に歌うようになりました。中でも人気の高かったのが、ダニー・オズモンドです。ダニーは、やがて、ソロ活動も始め、レコーディングも「スィート&イノセント」を皮切りに、1971年「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」(全米1位)や1972年「パピー・ラブ」(全米3位)は、アメリカだけでなく、日本でもヒットしました。ところが、このような人気の絶頂で変声期と重なり、それと闘いながら歌い続けていました。
 ダニー・オズモンドのソロの歌は、恋の歌が多く、年齢とアンバランスとも思えるほどの早熟で切々とした恋心を甘いバラードに乗せて巧みに歌っていました。ダニー・オズモンドは、12歳頃から16歳頃まで、多くの歌声を残しています。途中、変声期を迎えていますが、変声後も歌い続けています。そのような意味でも、声や歌の成長をみる上でも価値ある歌手と言えましょう。変声後も歌心は変わらず、せつない歌を聞かせてくれますた。「アー・ユー・ロンサム・トゥナイト」等見事な歌です。また、妹のマリー・オズモンドとのデュエットもレコーディングし、ダニーは妹のマリーと一連のデュエットを始めました。デュエット曲には、「私はすべてをあなたに任せています」や「モーニングサイドオブザマウンテン」などのトップ10ヒット曲が含まれています。 2人は、これまでで最も成功したテレビバラエティ番組の1つである、「ダニー&マリーショー」を主催しました。ダニーとマリーは、史上最年少のゴールデンタイムのテレビ司会者としてギネスブックに記載されています。彼らはまた、ピープルズチョイスアワードを受賞しました。
 なお、1970年代の初め人気の絶頂にあったオズモンズの人気も1970代末には低下し、専用の劇場の経営においても苦労するようにもなってきました。自叙伝「人生はあなた次第 人生はあなたが作るものだけ」では、アイドルとしての熱狂の日々、そして熱狂のあとの落差。生活のために家族をキャンピングカーに乗せて、アメリカ各地の学園祭などを巡った日々、パニック症候群との戦い、そして大人の歌手として見事に自分を立て直し、カムバックするまでの道のりについて、本人の素直な言葉で語られています。1988年には、久しぶりのニュー・アルバム「ソルジャー・オブ・ラブ」(全米2位)を出しています。なお、声質はテノールです。2000年代になり、『ロード・トリップ パパは誰にも止められない!』などの映画やテレビドラマにも出演しています。

   ⑨ マイケル・ジャクソン(Michael Jackson  1958~2009)

 最近では、音楽そのものよりも豪勢な生活、白人化する整形手術、スキャンダルによる裁判の方が多く耳に入るようになってしまったマイケル・ジャクソンですが、その少年時代の歌については特筆すべきものがあります。1958年インディアナ州に生まれたマイケルは、ブルースのギタリストをやっていた建築作業員の父と、ジョセフ・ウォルター・ジャクソンとカントリー&ウェスタンの歌手の母の9人の子の5番目(7番目という説もあります)として生まれました。10歳の時、兄弟5人で結成した「ジャクソン5」の一員としてデビュー。翌年には「帰ってほしいの」「ABC」など4曲連続でNo.1ヒットを放ち、スターの仲間入りを果たします。ソリストとしても、1972年、「ゴット・トゥー・ビー・ゼア」でデビュー。続く「ベンのテーマ」では、ソロ初のチャート1位に輝きます。
 マイケル・ジャクソンの歌の美点は、何といっても弾けるようなリズム感。ナット・キング・コールが創唱した「トゥーヤング」を同時期に活躍したダニー・オズモンドの歌と比べると、情熱的なダニーの歌さえも平板に聞こえてしまうほどの躍動感があります。ボーイ・ソプラノ時代に歌われた曲の多くがそのリズム感を活かした曲です。
 変声後は、1978年にダイアナ・ロスと共演した映画「ウィズ」がきっかけで、映画の音楽監督だったクインシー・ジョーンズと出会い、ヒットが続出。ついにはアルバム「スリラー」によって不動の地位を獲得します。このアルバムは、音と映像が相まって世界で5000万枚以上が売れています。どうもマイケル・ジャクソンの評価は、音楽以外の要素がありますが、やはり音楽そのもので評価していきたいと思います。

     ⑩  ニール・リード (Neil Reid 1959~   )

  1972年、ラジオで深夜放送を聞きながら勉強していたら、美しいボーイ・ソプラノの歌声が聞こえてきたというのが、ニール・リードとの出会いです。イギリスの12歳の少年で、その歌の題名が、「ママに捧げる歌」(原題「私のママ」)ということもすぐ分かりました。深夜放送にリクエストが殺到して、わずかな間にこの歌はたいへん有名になり、ニール・リードのEP・LPが発売され、来日もしました。確かに、「ママに捧げる歌」は、しっとりしたメロディと、ニール・リードの切々とした歌いぶりを生かしたものでした。この歌は日本語にも翻訳されて、ニール・リードはもとより、ジミー・オズモンドや坂本秀明によっても歌われ、レコーディングされました。
 ニール・リードは、スコットランドのランカシャー・マザーウェル出身で、幼い頃から歌がうまく、近隣の町まで有名になっていました。地元のフォークコンサートでも歌っていましたたが、劇場やテレビにに出演することで、頭角を現し、1971年11月にITV局のオーディション番組「Opportunity Knocksオポチュニティ・ノックス」に連続6回出演して優勝したことから、最初のシングル曲「Mother Of Mine ママに捧げる詩」をリリースしましたが、この曲は、イギリスで250万枚、日本では40万枚を売上げました。同年12に、最初のLP『NEIL REID』発売、ゴールドディスク受賞しました。しかし、この十数曲は、ポピュラーのスタンダード・ナンバーもありましたが、どれも同じ色彩の歌で、繰り返して聴く気になれなませんでした。声の美しさは感じても、それぞれの歌の心をつかんでいるとは思えなかったのです。ラジオで聞いたことのある2枚目のLPの"Blue Star(青い星)"など、ニール・リードの持ち味を生かしたよい出来だったように思います。なお、EP第2弾の「夢を見る頃」も、二番煎じで平板な出来と言えましょう。また、1972年日本で開催された第3回世界歌謡祭「ボクの子犬」を歌いました。変声期後の歌は、竹宮恵子の著書「鏡の国の少年」によると、何のとりえもないつまらない出来だったと言います。後日、その「僕のジョアンナ」というレコードを手に入れましたが、聴いた感想は同じです。変声を迎えたのを機に、ニールはプロの歌手を引退し、ランカシャー州ブラックプールに住み、Independent Financial Adviser(独立した財務顧問)として働いています。

    ⑪ ルネ・シマール (René Simard 1961~   )

ニール・リードが登場して2年後の1974年、「第3回東京国際歌謡祭」のカナダ代表として来日して歌ったのが、当時13歳のルネ・シマールでした。偶然、この番組を見ることができた私は、フランス語と日本語で歌われる「ミドリ色の屋根」の熱唱に、心をひかれるものを感じました。静かな語りで始まり、次第に高まり、大きく歌い上げるようなその歌は、人の心をつかみ、グランプリを獲得、ゲストのフランク・シナトラから特別賞まで貰いました。日本でのデビュー曲「ミドリ色の屋根」はオリコン3位の大ヒット!たちまちアイドルの仲間入りを果たしました。カナダのケベック州を中心とするフランス語圈では、その頃既に国民的な人気者であったといいます。
 ルネ・シマールがそこまでに至る生育歴をたどると、ルネは、カナダのケベック州、シクーティミで、7人の子どもを持つ音楽好きの家庭に生まれました。父親のシマールはもともと材木労働場のコックをしていて、貧しい生活を補うため、家にいる時は必ず近くの教会の聖歌隊のリーダーをつとめており、子どもたちは成長するとすぐに聖歌隊に入り、ルネはしゃべり始めると同時に歌い始め、7才で聖歌隊員になりました。しかし、ちょうどその頃、父親が病気になり、働けなくなり、厳しい生活を送らなければならなくなりました。8才のルネと兄のルジは、放課後両親に内緒で近所のバーにもぐりこんで歌うことを始めました。二人はケベック市の素人コンテストに出場し、二人とも、最終審査まで残り、ルネが優勝しました。それがきっかけとなって、タレント・スカウト番組でも、ルネは再び優勝しました。ルネのマネージャーであるギィ・クルティエが、彼自身の結婚式の時に、一人でオルガンを伴奏して賛美歌を歌っていたルネの美しい歌声にほれこみ、モントリオールで、彼のデビュー「鳥」のレコーディングを行いたちまちのうちに大ヒットとなり、10歳の若さで全カナダの人々の心を捉えました。このようなルネの生活を撮ったドキュメンタリーはDenis Herony(ドゥニー・エール)によって製作され、”Un enfant comme les autres”(普通の子供)という題名で発表されたが、会場には、延べ60万人という驚異的な動員数を記録しました。(出典:カナディアン・マガジン)
 その後、EP・LPも次々発売され、再来日してコンサートも開かれました。第2弾の「小さな生命」もかなりヒットし、持ち味を生かしているかに見えましたが、やはりその歌は、美声をより美しく響かせるというタイプの歌であり、だんだん感銘も薄れてきました。「鳥」や「ラ・メール」等のフランス語の歌はともかく、日本語の歌は、やはり発音に外国人らしさが抜け切らないので、そちらの方が気になって、あまり楽しめませんでした。その後、消息不明になって久しくなりましたが、それから約20年後、その消息が、「あの人は今」のような番組で取り上げられ、カナダでポップス歌手として成功していることがわかりました。その番組では、日本から派遣されたキャスターに愛想よく対応しながら当時の日本での思い出を語り、「ミドリ色の屋根」の一節を歌ってくれました。
 さらに、最近ではミュージカルにも出演し、また、歌を歌うだけでなく、音楽や舞台プロデュースも行なって活躍しています。

      ⑫ ノアム・カニエル(Noam Kaniel 1962~   )

 ノアム・カニエルは、イスラエルのテルアビブ出身で、8歳の時に子供のど自慢に出場し、音楽活動を開始しました。  1970年代初頭のフランス音楽界に彗星のごとく現れ、たった5年間の活動期間を経て、突如としてファンの前から永遠に姿を消してしまった伝説のスター マイク・ブラントに見出され、1974年にハイム・サバンがプロデュースした『幸せを僕に描いて』(Dessine-moi le bonheur)でフランスデビューしました。さらに、1975年には日本でノアム(Noam)名義で「愛のセシール」をリリース。東京、南アフリカ、ヨハネスブルグでコンサートツアーを行うなどして、人気を得ますが、声変わりと共に人気に陰りが起こります。しかし、日本のアニメ『UFOロボ グレンダイザー』のフランス語版主題歌を担当することで、人気は復活し、1980年代からは作曲家、プロダクションの社長としても活躍しています。少年時代は、フレンチポップス系の甘い雰囲気が漂う歌声です。

      ⑬ ジミー・オズモンド(Jimmy Osmond 1963~   )

  ジミー・オズモンドは、オズモンド・ブラザーズの末弟。1967年、3歳でオズモンド・ブラザーズの末っ子としてデビューしていますが、1970年に来日したときは、6歳ぐらいで、マスコット的な存在でした。そのかわいさに目をつけた日本のスタッフが、カルピスのコマーシャルや、写真左の「ちっちゃな恋人」のレコーディングに起用し、当時は、かなりの人気を得ました。しかし、これは、歌の上手な幼児が、舌っ足らずの日本語で歌っているところが「売り」で、音楽的なものは、あまり期待できません。
 その後も、日本でもレコードは発売され、成長のあとを知ることができます。1972年には、後述する「ママに捧げる歌」などを英語で録音していますが、歌心のある歌で、8歳の歌とは思えないよいできばえです。同年3月発売の「リバプールから来た恋人(英語版)」が全英シングルチャート1位(全米38位)を記録し、全英シングルチャート1位獲得最年少記録を更新しています(当時、9歳8ヶ月)。また、ラヴァーン・ベイカーのカバー「Tweedle Dee」(邦題は「陽気なジミー」)が全英4位を記録するなど、当時日本では、歌よりもカルピスのCMが中心でしたが、英語圏での活躍が目立ちます。
 変声後の1981年には、英語混じりの日本語で、「ちっちゃな恋人」の延長線上にある「君はプリティ」を歌っていますが、これは当然日本のファンへのサービス盤というべきものです。日本語がうまくなっていることにも気付きますが、結局日本ではアイドルとしての扱いであったことが残念です。この来日時には、『日曜お笑い劇場』に留学生という設定で出演しました。ボーイ・ソプラノとしての最盛期の歌を聴いてみたいと思います。
 1987年、マイケル・ジャクソン『バッド・ワールド・ツアー』において、日本公演の仲介役を務めるなど、実業家としても活躍し、2014年、アンディ・ウィリアムスの遺族に依頼され、ウィリアムスが1992年にブランソンにオープンした「ムーン・リヴァー・シアター」を買収し運営をしています。2016年1月に同施設は、「アンディ・ウィリアムス・パフォーミング・アーツ・センター」と改名しました。2017年、37年ぶりの日本公演を日経ホールで開催しています。

       ⑭ ルイス・ミゲル(Luis Miguel  1970~    )

 ルイス・ミゲルは、1970年4月にプエルトリコの首都サンファンで、スペイン人歌手ルイス・ガジェゴ(ルイシト・レイ)とイタリア人女優マルセラ・バステリの家族に生まれました。なお、アレハンドロとセルヒオという二人の兄弟がいます。父親はプロのミュージシャンでであったので、自分の子供が他のとは異なる強い声を持っていることに気付くとすぐに、彼は自分のキャリアを終えてルイスの個人マネージャーとなって、「ダイヤモンドの原石」の開発に取り組みました。そして、ルイス・ミゲルの人生を変える誕生日パーティーに、EMIレコードのエージェントが出席して、11歳のとき、ミゲルは最初の契約に署名しました。 次の 3 年間で、この才能ある子供は 4 枚のアルバムをリリースしました。
 父はステージパパで子どもを使って稼がせ、母が失踪するような、家庭的に恵まれない中で、ルイス・ミゲルはポップ、ボレロ、マリアッチ、ランチェラのジャンルで活動しています。 彼は英語、スペイン語、イタリア語でバラードも演奏します。 彼の録音は1億枚以上販売され、数多くの賞を獲得して歌い続けています。

    ⑮  イム・ヒョンジュ(Lim Hyung Joo 1986~      )

 イム・ヒョンジュは、韓国のポッペラ(Popera=ポップとオペラの合成語)という新ジャンルを開発している国民的テナー歌手で、2003年に韓国では、発売されたCDが大ヒットし、社会現象を巻き起こしました。1986年生まれの青年ですが、ボーイ・ソプラノだった12才の頃から「声楽の神童」と呼ばれていました。しかし、当時はまだ子どもであるという偏見から、すぐにはクラシック界では認められなかったようです。しかし、幼少の頃から世界を舞台に活躍することを夢見て、名門ジュリアードの予備学科で声楽を学びながら、国内を中心に活動を続け、盧武鉉韓国大統領の就任式で国歌斉唱も務め上げ、一躍、韓国を代表する歌手としての地位を築きました。現在は、イタリア・フィレンツェ、サンフェリーチェ音楽院に在学中です。
 ボーイ・ソプラノのときに録音したCD「Whisper of Hope」は、透明度の高い声と抒情的歌唱力がマッチして独特の美しい世界を構築しています。また、最近の「sally Garden」を聴き比べると、少年時代の透明度の高い抒情性を保ちながらも、さらにドラマティックな表現を身につけていることがわかります。今後の活躍が期待される歌手です。

       ⑯ アーロン・カーター ( Aaron Carter 1987~2022)

 その後、あまりポップス系のボーイ・ソプラノを聴くことがなかったのですが、1998年、アーロン・カーターのCDを入手することができました。当時11歳のアメリカのボーイ・ソプラノ歌手です。
 経歴をみると、ロックグループ バック・ストリート・ボーイズのニック・カーターの弟ということで、4歳から芸能活動をしています。CDに収録されたアーロンの歌は恋の歌が中心ですが、確かに可愛い声であるし、よくリズムに乗って歌っています。例えば「ワン バッド アップル」は、ダニー・オズモンドの歌と聴き比べても遜色ありません。ただ、叙情的な歌をどこまで歌いこなすのでしょうか。また、この20年間にポップスの主流は一層リズム重視となり、メロディは衰退しつつあるように思えます。そのような歌をボーイ・ソプラノで表現するのが最高なのかどうかということに疑問は残りましたが、成人後も歌手活動を続け、5枚目で最後のアルバムとなった「ラブ」は2018年にリリースされ、テレビ番組にも出演していました。近年は、心の健康問題と闘っていることを打ち明けていました。2022年11月5日34歳の若さで亡くなったというニュースが入りました。

   ⑰ ビリー・ギルマン (Billy Gilman 1988~   )

 現在,、若手ヴォーカリストとして脚光を浴びているビリー・ギルマンは、ボーイ・ソプラノ時代にも優れた業績を残しています。1988年生まれのビリー・ギルマンは、カントリーミュージックファンの祖父母の影響を受け、2歳の頃から歌い始めました。11歳のとき、デビュー曲「One Voice」で最年少でビルボードに載ったあとは、3枚のCDを次々と発表。2枚目の「クラシック・クリスマス」は、日本でも発売されました。歌い方は聖歌隊風の透明度のある演奏ではなく、ダイナミックに歌いあげる演奏で、「オー・ホーリー・ナイト」など、大向こうをうならせるような歌い方です。
 14歳で、声変わりしたあと、一時期は歌手としての活動を休み、歌うこともしなかったが、また歌い始めることがでるようになり、ヴォーカリストとしてカムバックしました。歌い巧者で、カントリーミュージックはもとより、ジャズ調、バラード調の歌などもうまみのある歌を聴かせてくれます。

      ⑱ ジョゼフ・マクマナーズ(Joseph McManners 1992~  )

 イギリスのカンタベリー出身のボーイソプラノとして注目されていたジョゼフ・マクマナーズは、1992年生まれ。8歳の時、「タイタニックのテーマ」を歌って、母親が彼の才能に気付いたことがきっかけで音楽界に進出。カンタベリーの地方劇場では「オリバー」で主役も演じた経験があります。 BBCのTV版「星の王子様」のオーディションで25,000人の中から選ばれ、大きな飛躍を遂げました。「星の王子様」の撮影中に、彼はソニーBMGのエグゼクティブによって発見され、200万ポンドの4枚組アルバムを記録しました。彼のデビューアルバムのリリースは、数日以内に古典的なチャートで5番に達し、このアルバムは、2006年のClassical BRIT賞で "Album of the Year"にノミネートされ、同じアルバムから "Bright Eyes"がリリースされ、アジアンエアプレイの第1位にデビューしました。CD「イン・ドリームズ」のジャケットを見ると、視覚的にもセミロングの髪をした中性的な少年です。歌声は、むしろ可愛い幼さを感じますが、その優しい歌い方には心惹かれるものがあります。このCDでは、「ピエ・イエズ」や「天使のパン」のようなクラシックの分野からミュージカルのナンバーまで歌っています。むしろ優れているのは、「オリバー!」などのミュージカルのナンバーです。また、変声後は、シンガーソングライター、ミュージシャン、俳優として活躍しています。

      ⑲ ダニエル・ファーロング(Daniel Furlong 1998~     )

 ダニエル・ファーロングは、アイルランドの歌手です。彼は、少年時代ボーイ・ソプラノとして頭角を現しましたが、いわゆる聖歌隊のソリストというコースではなく、日本で言えば、歌うタレント養成コースに当たるオールアイルランドタレントショーの第3シリーズで優勝したことで知られています。彼は、このように、コンテストに出演して優勝したり、ミュージカルでオリバー役を演じたり、ツアーに参加して歌っていたようです。彼のファーストアルバム“Voice Of An Angel”は、2011年にMRPからリリースされました。このアルバムは、12曲の歌で構成されていますが、“You Raise Me Up”“Bright Eyes”“Over the Rainbow”など、いわゆるクラシックとポップスの中間にあたる選曲です。そのような意味では、ジョセフ・マクマナーズ(Joseph McManners)と同じ系列の少年歌手です。清冽というよりも、ボーイ・ソプラノならではの愛らしさでメロディラインの美しい歌を歌っているのがその特質です。
 また、後に彼はアイルランドのバンド ケルトサンダー(Celtic Thunder)のメンバーになっています。そのようなことから、少年歌手という分類でご紹介します。変声後も、レ・ミゼラブルスクールエディションで活躍したり、エルビス・プレスリーの歌をカバーするなど、大人の歌手として活躍中です。

    ⑳ ミゲル(Miguel Guerreiro 1998~   )

  芳香剤「消臭力」のコマーシャルで一躍人気者となったミゲルの本名は、ミゲル・ゲレイロ。1998年ポルトガル生まれで、地元ポルトガルで行われたコンテストで優勝したあと、2枚のCDをリリースしています。日本では、2011年の4月にエステー化学の芳香剤「消臭力」のコマーシャルソングを歌って人気者になり、数度来日しました。その年に、全て日本語のCDを出したりしましたが、翌年春に来日したときは、既に変声期に入り、ボーイ・ソプラノとしての更なる活躍は期待できなくなりました。ミゲルの声は、ラテン系の明るくて強い発声が特徴ですが、何曲も続けて聞くと、やや一本調子に聞こえます。

     ㉑ ダニエル・リチャード・ハトルストーン(Daniel Richard Huttlestone 1999~   )

  イギリス人俳優ダニエル・リチャード・ハトルストーンは、イギリスのグレーターロンドンのヘイヴァリングで3人兄妹の2人目として生まれました。2009年、9歳のときにミュージカル『オリバー!』のニッパー役で舞台俳優デビューしました。その後、『オリバー』の2012-2013のUKツアーでは、ドジャー役を演じていました。重要なドジャー役を演じられるくらいなので、実力もあると考えられます。その後、舞台『レ・ミゼラブル』でガブローシュ役を演じ、2012年の映画版にも同役で出演し、世界的に知られるようになりました。
   また『イントゥ・ザ・ウッズ』の2014年の映画版でジャックの役割を果たしました。彼は2015年の夏にロンドンタウンを撮影し、そこでジョナサンリースマイヤーズと協力しました。ハトルストーンはロストシティZでブライアンフォーセットを演じました。この映画は2016年10月15日のニューヨーク映画祭で初公開されました。(なお、兄妹もミュージカル俳優です。)

     ㉒  オ・ヨンジュン(2006~   )

 2006年に済州道で生まれたオ・ヨンジュンは、2016年にMnetのオーディション番組「WE KID」という子どもたちが歌の実力を競う番組に出演して、その成績は不明ですが、この時のステージが注目を集め、その年、YouTubeで韓国の人々に多く見られた動画の8位になり、韓国内で知られるようにました。今でもYouTubeに掲載されている歌唱には、多くの視聴者がいたことがわかります。そして、この少年は、国際交流の舞台でもある2018年の平昌オリンピックの閉会式では、第1回のアテネオリンピックで歌われた後、楽譜が長らく不明となり、東京オリンピックで復活した「オリンピック賛歌」を歌い、同年の南北首脳会談の後に開かれた晩餐会では、キム・グァンソクの「風の吹くところ」を歌い、アンコール曲では、「故郷の春」を歌ったことで、当時国際的にも話題になりました。その歌唱の魅力は、技巧よりも素朴な少年ならではの、抒情性に満ちた透明度の高い清純なところにあり、「故郷の春」は、「アリラン」と並んで、韓国の代表的な歌ですが、両国間の政治課題の会談で緊張感の漂っていた北朝鮮の首脳たちも、この歌が歌われているときばかりは、柔和な表情をしています。これも、少年が歌う「歌」がもつ力かもしれません。2019年の韓国ドラマ『王になった男OST』では、「もう一度会えるなら」を歌っていますが、それまでより、しっとりした歌声で、この時期には少し声が低くなってきいるのではないかも感じます。また、CDも3枚はリリースしているようですが、入手できていません。

      ㉓ コーマック・トンプソン(Cormac Thompson 2009?~    )

 ランカシャーのダーウェン出身のコーマック・トンプソンは、コロナ禍で、ロックダウンされた中、インターネットを介してしか会うことのできなくなった北アイルランドに住んでいる祖母に歌いましたが、その声と歌は、注目され、その年のうちに、有名なレコードレーベルのデッカレコードに発見された後、契約した最年少の歌手になり、デビューアルバムをリリースしました。デッカレコードは、“Hear My Voice”(「僕の声を聴く」よりも「僕の歌声を聴いてよ」と訳した方が、より身近に感じられます)」というタイトルの15曲のアルバムで彼と契約を結びました。このCDは、2020年12月4日にリリースされました。題名は、ファーストネームの"コーマック"が記載されています。コーマックの祖母であるコリーンは、次のように述べています。
「私のために歌われた彼の小さな作品が、この素晴らしい機会につながるとは想像もできませんでした。夫と私はコーマックをとても誇りに思っています。彼の歌が多くの喜びをもたらすことを願っています。また、私たち全員が耐えなければならないこれらの暗い時期に少し光を当てるのに役立つことを願っています。」
 コーマック・トンプソンの歌声は、とろけるような甘い声で、CDをリリースした時期においては、むしろ年齢よりも幼い感じを受けることもありますが、音程もしっかりしており、このアルバムには、コーマックの祖母のお気に入りでもあり、彼を有名にした曲「ダニー・ボーイ」、「ユー・レイズ・ミー・アップ」等が収録されており、コロナ禍で苦しんでいる人の心を癒す働きをもっています。教会の聖歌隊で発声を学んだいわゆる「トレブル」の歌ではありませんが、胸声のまま高い音域まで歌い上げていく響きに独特の味わいがあります。
   2021年、ロックダウンが終わった後は、デッカレコードから離れて、活動の中心を自身のホームページとその中に併設されているYouTubeチャンネルに移すと同時に、ソールズベリー大聖堂で開催された「BBC Young Chorister of the Year」コンペティションの決勝戦にも参加しました。ということで、ポップスからクラシックに進出してきた例ともいえるのではないでしょうか。なお、2022年末には、変声期を迎えましたが、ロイヤル アルバート ホールで開催されたチャリティー クリスマス キャロル コンサートで、救世軍の素晴らしい活動を支援し、哀愁に満ちた歌声になってきており、新たなステージでの活躍が期待されます。
 https://www.cormacthompson.com/

                                             (つづく)

                                            

                                         戻る

ルカ・ブルゴノーリ